やっぱり、寝かせて味が馴染んだシチューは美味しいですね!どんどん食べられてしまいます。
今週は、今まで待っていた色々なことが一気にやってきてしまい、なんだか忙しいです…。それでも、全部やりがいのあることのような気がするので、きっと「嬉しい悲鳴」というものなのかもしれませんね。これを乗り切った先に、今よりもましな自分が待っているといいなと思います。
今日はシチューを作りました。調子に乗って具を切りまくったら、キャベツを入れる前に鍋がいっぱいになってしまった…。ごまかしごまかしでなんとかできました。色々あったけれど、そこそこうまくいった…かな?
クラシック関連、「始めます!」と言いながら、今日は始められなさそうです。今週のうちには、なんとか始めたいですね。
クラシック関連、「始めます!」と言いながら、今日は始められなさそうです。今週のうちには、なんとか始めたいですね。
最近の週末は「疲れた…」「だるい…」で終わってしまっていましたが、なぜか今週末はそこそこ動けています。といっても、近所を徘徊しているだけなのですが…。繁華街へのお出かけは、もう少し先になりそうです。
今日アマゾンを見ていたら、「クラシック音楽の演奏が演奏家によって全然違うなんて、ありえない」というような評価を目にした。個人的には「全然違う」とは言わないまでも、演奏によって「結構違い得る」のは確かだと思っている。けれど確かに、昔職場の先輩に対して「結構違います!」と言った際には、けっこう驚かれていた気がする。それに自分自身のことを思い出してみても、昔はどれも「同じ」に聞こえていたように思う。
このような評価の違いは、何が生んでいるのだろうか?おそらく、2つの方法で説明できるのではないかと思う。ひとつは、ただ「そのジャンルによく親しんでいるかどうか」が違うだけ、という側面なのではないだろうか。たとえば日本人にとっては、周囲の人の顔は「結構違う」ように見えるけれど、白人なんかにしてみれば「奴らはみんな同じ顔だ」と思える場合が多いだろう。逆に日本育ちの人間からしてみれば、外国人の顔はなかなか区別しづらい。
音楽でも同じことが言えると思う。クラシック音楽をほとんど聴いたことのない人からしてみれば、使っている楽器は曲ごとにそんなに違わないし、楽器の使われ方にもそこまで大きなバリエーションはないように感じるわけで、「どれも似たような感じ」と思えるのは当然だと思う。逆に(実際、自分の親が言っていたことだけれど)、J-POPに馴染みのない人間から見れば、J-POPこそ同じような編曲方法で、似たり寄ったりのキャラクターの歌手が、似たり寄ったりの歌を歌っているように見える。これらの印象は、どちらも「そのジャンルに馴染みがない」せいで「同じカテゴリー」にしか入らない、というだけで、様々な曲に親しむ過程で、だんだんと「違い」がわかってくるのではないかと思う。
そしてもう一つの、より本質的な違いは、「どこに『違い』を見出しているか」というポイントなのではないかと考えている。結局「馴染む」とはどういうことかと問い直せば、「この曲よりもあの曲が好きだ」「この演奏よりもあの演奏の方が好きだ」という好悪の感覚が出てくることなのではないかと思う。そして「好悪の感覚」が出るためには、「この2つはこういう点が違う」と(無意識的であれ)認識する、ということが確実に必要になるのではないだろうか。つまり、たとえばJ-POPとクラシック音楽では、「曲/演奏ごとの違いのありかた」が異なるために、片方だけに馴染みがある場合、もう片方の違いがよくわからない、という事態が生じている気がする。逆に一旦「違い」がわかると、そのトピックの深みが少しずつ見えてくるようになるのではないだろうか。
個人的な尺度になってしまうけれど、J-POPはやはり「歌」を中心に作られていて、それがどれくらい心(あるいは身体?)に響いてくるかということが、クラシック音楽に比べて重視されているように感じる。これに対してクラシック音楽では、一定の「形式」を「解釈」する、という図式が基本にあって、与えられた形式を土台(あるいは参照)にしていかに発想・表現を拡げていくか、という点が重視されていると思う。もちろん、メロディーだとか和音だとか音色だとかは共通なので、そういう意味では歩み寄りもできるだろうとは思うけれど、上記の相違点から改めて考えてみると、片方の見方でもう片方を見たら、それはつまらないだろうという気がしないでもない。
結局のところ、音楽であれなんであれ、特定の趣味にはある程度共有された「愉しみ方」というものが存在するのだろう。ただそれは「こうしなければダメ」というルールのようなものではなく、それぞれのジャンルの問題意識だとか世界観、こだわりポイントの相違に起因した「どのように違っていることが多いか」というパターンのようなものなのだと思う。一旦自分なりのパターン(つまりこだわり)ができたら、どのような趣味でもそれなりに愉しめるのではないだろうか。
そんなわけで今は、このブログで私なりに「クラシック音楽の案内」を少しずつしていけないか、と思案しております。かくいう私も案内されて入り口まで来たけれど、立ち止まっているようなタイプの人なのですが…。読書の方もそういうタイプのことができればよいのですが、まだそちらはパターンのパの字もわからないので、しばらくは「あれが好き」「これが好き」と書き散らす感じになる気がします。そしてもちろん、クラシックにしても読書にしても(そして他の趣味にしても)、偉大な先人たちがたくさん案内書を出しているので、できるだけそういうのとは違う方向性が出せたらよいですね…。
しかし読書にクラシックでコンピュータって、我ながらすごくインドア派ですね…。
今日アマゾンを見ていたら、「クラシック音楽の演奏が演奏家によって全然違うなんて、ありえない」というような評価を目にした。個人的には「全然違う」とは言わないまでも、演奏によって「結構違い得る」のは確かだと思っている。けれど確かに、昔職場の先輩に対して「結構違います!」と言った際には、けっこう驚かれていた気がする。それに自分自身のことを思い出してみても、昔はどれも「同じ」に聞こえていたように思う。
このような評価の違いは、何が生んでいるのだろうか?おそらく、2つの方法で説明できるのではないかと思う。ひとつは、ただ「そのジャンルによく親しんでいるかどうか」が違うだけ、という側面なのではないだろうか。たとえば日本人にとっては、周囲の人の顔は「結構違う」ように見えるけれど、白人なんかにしてみれば「奴らはみんな同じ顔だ」と思える場合が多いだろう。逆に日本育ちの人間からしてみれば、外国人の顔はなかなか区別しづらい。
音楽でも同じことが言えると思う。クラシック音楽をほとんど聴いたことのない人からしてみれば、使っている楽器は曲ごとにそんなに違わないし、楽器の使われ方にもそこまで大きなバリエーションはないように感じるわけで、「どれも似たような感じ」と思えるのは当然だと思う。逆に(実際、自分の親が言っていたことだけれど)、J-POPに馴染みのない人間から見れば、J-POPこそ同じような編曲方法で、似たり寄ったりのキャラクターの歌手が、似たり寄ったりの歌を歌っているように見える。これらの印象は、どちらも「そのジャンルに馴染みがない」せいで「同じカテゴリー」にしか入らない、というだけで、様々な曲に親しむ過程で、だんだんと「違い」がわかってくるのではないかと思う。
そしてもう一つの、より本質的な違いは、「どこに『違い』を見出しているか」というポイントなのではないかと考えている。結局「馴染む」とはどういうことかと問い直せば、「この曲よりもあの曲が好きだ」「この演奏よりもあの演奏の方が好きだ」という好悪の感覚が出てくることなのではないかと思う。そして「好悪の感覚」が出るためには、「この2つはこういう点が違う」と(無意識的であれ)認識する、ということが確実に必要になるのではないだろうか。つまり、たとえばJ-POPとクラシック音楽では、「曲/演奏ごとの違いのありかた」が異なるために、片方だけに馴染みがある場合、もう片方の違いがよくわからない、という事態が生じている気がする。逆に一旦「違い」がわかると、そのトピックの深みが少しずつ見えてくるようになるのではないだろうか。
個人的な尺度になってしまうけれど、J-POPはやはり「歌」を中心に作られていて、それがどれくらい心(あるいは身体?)に響いてくるかということが、クラシック音楽に比べて重視されているように感じる。これに対してクラシック音楽では、一定の「形式」を「解釈」する、という図式が基本にあって、与えられた形式を土台(あるいは参照)にしていかに発想・表現を拡げていくか、という点が重視されていると思う。もちろん、メロディーだとか和音だとか音色だとかは共通なので、そういう意味では歩み寄りもできるだろうとは思うけれど、上記の相違点から改めて考えてみると、片方の見方でもう片方を見たら、それはつまらないだろうという気がしないでもない。
結局のところ、音楽であれなんであれ、特定の趣味にはある程度共有された「愉しみ方」というものが存在するのだろう。ただそれは「こうしなければダメ」というルールのようなものではなく、それぞれのジャンルの問題意識だとか世界観、こだわりポイントの相違に起因した「どのように違っていることが多いか」というパターンのようなものなのだと思う。一旦自分なりのパターン(つまりこだわり)ができたら、どのような趣味でもそれなりに愉しめるのではないだろうか。
そんなわけで今は、このブログで私なりに「クラシック音楽の案内」を少しずつしていけないか、と思案しております。かくいう私も案内されて入り口まで来たけれど、立ち止まっているようなタイプの人なのですが…。読書の方もそういうタイプのことができればよいのですが、まだそちらはパターンのパの字もわからないので、しばらくは「あれが好き」「これが好き」と書き散らす感じになる気がします。そしてもちろん、クラシックにしても読書にしても(そして他の趣味にしても)、偉大な先人たちがたくさん案内書を出しているので、できるだけそういうのとは違う方向性が出せたらよいですね…。
しかし読書にクラシックでコンピュータって、我ながらすごくインドア派ですね…。