ぐわっぱのできるかな -6ページ目

ぐわっぱのできるかな

考えたことや表現したいこと、活動の履歴。

昨日食べたレトルトハンバーグがおいしかったです。最近は自分の弱さと闘っていますが、非常に分が悪いです。弱さと向き合うのも難しいし、弱さに克つということになると、なお難しい…。



昼間からベッドでぐったりしていて「外から今の自分のこの姿を見ることは可能だろうか?」とふと思った(うちは5階建ての5階、周りにはあまり高い建物はない)。たとえば蜃気楼の時のような空気の状態をうまく作り出せば、外の道路に立っていてもそういうことは可能なのだろうが、そういうことができない場合、何らかの特殊な装置を使っても難しいのだろうか?たとえば(本当にふざけた比喩になってしまうけれど)、光をボールだと思ったときに、ボールの回転をうまく制御してやることで、「周囲の空気は均一だけれど、部屋からやってくる光はカーブを描く」というような状況を作ることは可能なのだろうか?あるいはもしかして、超強力な重力場を局所的に作り出せば可能なのかもしれない。ただそういうことをした場合、「自分の姿を見る」だとかそういうかわいい現象では済まずに、周囲のものを巻き込んだ異常事態になる気がする。

そこまで考えてまた急に思いついたのは、「むしろ、均一な空間で光が進む方向をこそ、私たちは『まっすぐ』と感じるのではないか」ということである。そもそも「直進」という言葉の定義自体、物理学的には難しい気がする。結局のところ、「『他に何もない場合に』光が進む方向」といった具合にしか定義できないのではないだろうか。

そう考えると、この宇宙の時空間というものが、光の振る舞いによって規定されているような気になってくる。距離も時間も、私たちができる精一杯の見積もりは「光がどれだけ進んだか」という形であるように思える(実際、現在のメートルおよび秒の定義は、そうなのではないだろうか)。まあほとんどの物事は電磁気なしには認識できないわけだし、「私たちの認識」から考えると当然と言えば当然なのかもしれないが、「光というものの性質によってこの宇宙の性質が決まっている」という感覚は面白いと思う。

ちなみに、「本来の性質をもたない光」を仮定することに意味はあるだろうか?数学では、非ユークリッド幾何学の記述を通じて、数学の考え方自体が大きく発展したのではないかと思う。同じように、現在前提として組み入れられている「光の性質」をうまく書き換えてやることによって、「本来あり得ない宇宙」を記述することは可能だろうか?

まあ、何らかの安定した宇宙像が記述できたとして、今の宇宙を飛び出さなければ意味はないのかもしれない。さらに問題として、「現在の理論のどこまでを『前提』として、どこからを『恣意的な部分』と仮定するか」という切り分けも、数学と違って難しい気がする。ただ少なくとも、こういう作業を通じて「何が今の宇宙を今の宇宙たらしめているか」が明らかになるのは、悪いことではないように感じる。予算はどこからも出ないかもしれないけれど。

(旧約)聖書における創世記の始まりは「光あれ」だった。もちろんほとんどの人間は視覚にかなり頼っているので、そういった意味での「始まり」なのかもしれないけれど、物理学的に読んでもこれは達見なのではないだろうか。

参考

風邪からはだいぶ復調しましたが、引き続き暑さにやられています。私はビタミンC万能論の信者なので(といっても、風邪や頭痛のときは市販薬を飲んでいます)、最近は野菜や果物をなるべく詰め込むようにしています。ネクタリン美味しいですね!



とくにオーケストラ曲の場合は色々な楽器がありすぎて、「どこに注目したらよいかわからない」という状態になり、結果として漫然と聴いてしまい、意味不明になる…ということがある気がします(私はそうです)。そういうことの多い人へのお薦めは何種類かあるのですが、その中の一つが協奏曲です。

協奏曲の基本は「ソロ楽器 vs. オーケストラ」という構成です。ソロ楽器がバイオリンなら「バイオリン協奏曲」、ピアノなら「ピアノ協奏曲」、クラリネットなら「クラリネット協奏曲」になります。もちろんオーケストラの中にも「ソロで演奏する楽器」というものは存在するわけですが、協奏曲の場合は「オーケストラ」全体と対等な形で「ソロ楽器」が置かれている、という点が違います。どうも協奏曲形式の主眼としては、ソロ楽器のよさをいかにして引き立てるか、ということのようです。

私が思うに、協奏曲で面白いのは(何度も書くようですが)「ソロ楽器とオーケストラの競演」です。オーケストラの強みは、たくさんの種類の楽器があることです。さまざまな楽器の組み合わせ方で、豊富な種類の音色や響きを出すことができるし、楽器同士の掛け合いを使って複雑な構成を演出することもできます。一方のソロ楽器の本領は、1本の楽器だからこそできる深い表現力です。普通オーケストラのような大所帯では、全体としての一体感を出すために個々の楽器の表現力は抑制されてしまう場合が多いですが、そのようなしがらみのないソロ楽器なら、個人の表現力を思い切り前面に出すことができるわけです。このように、オーケストラの持つ「全体論の表現力」と、ソロ楽器の持つ「個人の表現力」とのせめぎ合いをどのように演出するか、というのが、協奏曲の醍醐味なのではないかと思います。

おそらく、私の思う「よい協奏曲」というのは、うまく役割分担された飲み会と同じだと思います。しゃべりのうまい人(ソロ楽器)と、数人の盛り上げがうまい人(オーケストラ)が相乗効果を生み出すことで、楽しい飲み会が演出されます。思うに、私が協奏曲を聴いているときは、「盛り上げ役がしゃべり役のどのネタを、どのように拾って盛り上げているか」「盛り上げ役の作った雰囲気に、しゃべり役がどのように乗り、さらに自分の世界を展開するか」というような感覚なのかもしれません。



数多ある協奏曲の中で私が特に推薦するのが、ドボルザークのチェロ協奏曲です。もちろん私がチェロを好き、という事情もあるのですが、上に書いたような「せめぎ合い」が非常に美しく実現されているような気がするからです。この曲はドボルザークの代表作の一つであり、クラシック音楽で「三大チェロ協奏曲」を決める場合、誰が選んでも確実にこの曲は入る、という曲です(おそらくこれ以外の2曲は、個々人の嗜好によってかなりばらけるはず)。

ドボルザークのチェロ協奏曲(最初の方0:04~はかなり音が小さいです;私の環境では音が頻繁に飛んだのですが…もし再現するなら、他の録音を聴いた方がよいかもしれません)

2楽章、3楽章も非常によいのですが、長くなるので1楽章(~15:24くらい)についてだけ紹介します。

1楽章は、協奏曲ソナタ形式などと呼ばれる形式になっています。普通のソナタ形式と違うのは、提示部を2回繰り返す代わりに、「オーケストラによる提示部」と「ソロ楽器による提示部」を持つ、という点です。

オーケストラによる提示部は、第1主題と第2主題からなっています。第1主題の演奏では、クラリネットによる主題の提示が弦楽器に引き継がれて、ホルンを経由して全奏(0:50ごろ~)に至ります。一旦静かになって第2主題がホルンの独奏で始まります(2:03ごろ~)。オーボエとクラリネットの掛け合いを経由して、改めて全奏になって終わります。私の感想では、どちらも盛り上げ方がうまくて好きです。以降も含めて、どこでどの楽器が第1主題(の一部でも)を演奏しているかに着目しながら聴くと、曲の構成がわかりやすいように思います。

また静かになったところで、ソロ楽器が「満を持して」という雰囲気で第1主題を始めます(3:30ごろ~)。この辺りのソロの演奏は、オーケストラではなかなかできないような表現力がソロ楽器に要求されるよう、うまく楽譜が作られていると感じます。4:00あたりからの木管楽器とソロ楽器の絡みも素敵です。5:45辺りから第2主題に入りますが、これも序盤でのホルンや木管楽器による第2主題の提示部と比べると、それぞれの楽器の音色の特色がうまく活かされているように感じます。

展開部は、提示部の終わりと継ぎ目なく繋がっているような気がしてどこからと言いづらいですが、おそらく9:00くらいからになるのだと思います。オーケストラがうまく雰囲気を盛り上げた後、ソロ楽器が叙情的な旋律を静かに演奏します(9:30ごろ~)。ここもチェロの高音部のよさがうまく活かされている気がしますし、後ろのフルートのオブリガート旋律や、急かすように出てくる弦楽器のピチカートもきれいです。最後の長大なグリッサンドで、なだれこむように再現部に入っていきます。

再現部(11:40ごろ~)は、第2主題の再現から始まります。どうもロマン派の協奏曲だと、こういう構成もあるらしいです(古典的な協奏曲ソナタ形式だと第1主題から始まります)。第1主題の再現は14:00ごろからのようです。15:00ごろからオーケストラ全奏に引き継がれて、華やかに終わります。

けっきょく曲をそのまま解説しただけになってしまいましたが…何にせよ、「この楽器(この場合はチェロ)、いいなあ」と思わせることができれば、協奏曲としてはよい曲なのだと思います。
この他にも、代表的な(そして私が好きな)協奏曲をいくつか挙げておきます:

メンデルスゾーン バイオリン協奏曲

チャイコフスキー バイオリン協奏曲

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番

ラフマニノフ ピアノ協奏曲
第2番


ベートーベン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」

エルガー チェロ協奏曲

ハイドン チェロ協奏曲第1番



最近手足のさきがやけに熱っぽいのですが、これは風邪が治り切っていないと見るべきなのか、それともただ暑くなってきたせいなのか…。

ブログに書きたいことはあれやこれやとあるのですが、病み上がりだったりいろいろ物事が立て込んだりで、頭がブログモードになかなかなりません。本来自分のログをつけるのが「ブログ」だと思うのに、「腰を落ち着けてブログに書き込む」という感覚になってしまっているのは何なのだろう、ともやもやしています。自己顕示欲のせいでしょうか。