だんだん自炊が億劫になってきましたよ…せめてブログの更新頻度くらいは自炊をしたいです。
せっかく参院選が話題になっているので、これからの日本について考えてみている…けれど、自分はそういう政治的な考え方はすごく苦手なので、何についても結論が出せずにいる。だから、ただの覚え書き。
「これからの日本」を考えていくときに、原発だとか景気回復だとか、そんな各論ばかりで盛り上がってよいのだろうか?確かに大切といえば大切なのだけれど、「今後の日本をどういう国にしていきたいのか」というレベルの視点から議論して欲しいと思う。そういう視点のない政治家は、ただの政党の駒なのではないだろうか。
しかし「どういう国」というのも、なかなかとっかかりが掴みにくい…。イメージとしては、「日本という国を支える柱は何か」「今後の世界の動きの中で、日本はどのような立ち位置を確立していけばよいと思うか」「国家と国民との関係はどうであればよいのか、国民に対して国家、国家に対して国民は、それぞれどのような役割を果たしていくのが良いと思うか」といった問いに対して、理想と現実をうまくつなげてやれることが重要なのではないかと思う。
そもそも「共同体を持続させるために、その成員は何をすべきか」ということが、自分にはよくわからない。それについて何か重要なことを少しでも教わったとすれば、それは大学時代の経験なのだけれど、そのあたりもいまいちもやもやしている。「共同体を成り立たせているリソースの認識」「個々の成員の、成員としての役割の自覚」「本音と建前のうまい意思疎通・集約」「次代の成員の育成」あたりが重要なのだろうか。
思うに、今の日本は人間でいう「目標を見失った状態」なのかもしれない。幕末以来、「富国強兵」「所得倍増」「列島改造」あたりまでは、振り返ってみた限りでは話の筋が分かりやすかった。「ふるさと創生」「ものづくり立国」なんかも、方法に問題があっただけで、目の付け所じたいは悪くなかった気がする。様々な考えを持つ人が色々な方向を向いてしまった今、これらを集約できる新たな「目標」をつくることはできるのか?それとも、目標なしでも確立できる何らかのアイデンティティがあるのだろうか?
まあ、こんなことをうじうじ考えるから、政治や社会には向かないのです。
どんどん夜更かしになってしまっております…どうも私は夜型らしく、起きようと思えばけっこういくらでも起きてしまえるのです。最近は気が進まないあれやこれやがあり、どうしても諸々の作業を終えるのが後ろにずれこんでしまっているのですが、長期的に見るとけっこうまずいなあ。早いところ、朝方生活に戻してしまいたいです…。
ふと思い立って、いつも地下鉄で行く繁華街に歩いて行ってみました。2時間半かかりました。2時間過ぎたくらいから足が痛くなり、ロボット歩きになってきたので、帰りは諦めて地下鉄に乗りました。もう少し歩くことを習慣づける必要がありそうです。
芥川龍之介の「杜子春」で、「人間らしい、正直な暮らし」というキーワードが出てくる。しかしこの「人間らしい暮らし」とは、いったいどういうものなのだろう。「人間らしさ」とは、いったい何だろう。
個人的な意見としては、「おそらく他の生物には不可能で、人間でのみ可能なこと」が「人間らしさ」につながるのではないかと考えている(つまり「その場の欲求に素直に生きる」ということは、ある意味では「人間らしさとは言えない」のではないか、ということ)。たとえば、「客観性」という概念は、チンパンジーやゴリラにあるだろうか?少なくとも、「客観的に物事を考える」ということが如実に現れる行動はないのではないかと思う(もちろん、どうしたら客観性の有無を証明できるかが非常に難しいのだけれど)。
上記の点についてとくに重要だと感じるのは、「自分にとってどうか」ということに加えて「他者からどう見えるか」という視点が入ってくることである。自分が「客観的にそうである」と言えるのは、「自分にとってそうだし、自分が想像する限りでどんな考え方を持つ人にとってもそうだろう」と思えるからである。言い換えるなら、何かを「客観的だ」と判断する基準の厳しさは、「想像できる他人の考え方」の範囲の広さに依存すると思う。「常識をふりかざす人ほど視野が狭い」というふうに感じるのは、こういう事情からくるのではないだろうか。何にせよ、「他の人がどう考えるか(感じるか)」という観点は、けっこう人間らしいものなのではないかと思う(そういう意味では、客観性というより「間主観性」かもしれないが)。
因みにその意味で、言語を用いたコミュニケーションは、客観性の形成の根幹を成しているのではないかと思う。「他者の視点」が自分の中に形成されるためには、ただ「他者がいる」というだけでなく、「同じ状況でも、自分と他人で受け止め方が違う」ということを認識する必要があると思う。そのためには、言語を用いて「自分なりの状況の解釈」を伝えることが不可欠なのではないだろうか。その一方で、言語があったからといって、必ずしも「他社の視点」が涵養されるわけではないようにも思う。ただ単に「(その状況に居合わせない他人に対して)情報を伝える」というだけでなく、「(おそらく同じ状況に居合わせている他人に対して)自分の視点を伝える」という使い方がされて初めて、「他者の視点」という概念ができるきっかけになるのではないだろうか。そう考えると、言語そのものよりも「他者の視点」という概念の方が、より「人間らしさ」に近いのではないかという気がする。
客観性以外で「他者の視点」が重要な局面はあるだろうか。考えてみると、「集団によるいじめ」でもそういう側面は必要かもしれない。いじめに加担すること・しないことを、いじめている側やいじめられている側がどのように捉えるだろうか、という視点なしには、「いじめに加担する」という選択肢はなかなかとれないのではないかと感じる(まあこの例については、それ以外の観点の方が重要だとは思うけれど)。そういう意味で、残念ながら集団によるいじめには「人間らしさ」が現れている、と思う。逆に、まだ考えがまとまりきっていないのでなんとも言えないけれど、「愛情」というものも、もしかするとこういう観点から特徴付けることが可能なのかもしれないと思う。
このように、「人間らしさ」は「自分の中の他者の視点」によって支えられている、ということができるのではないかと考えている。
「これについて私はこう感じた、あなたはどう感じるか」
「あなた(あの人)はこう感じるだろう、だから(だけど)私はこうする」
こういう言動の積み重ねが、「人間らしい暮らし」に繋がっていくのではないだろうか。
芥川龍之介の「杜子春」で、「人間らしい、正直な暮らし」というキーワードが出てくる。しかしこの「人間らしい暮らし」とは、いったいどういうものなのだろう。「人間らしさ」とは、いったい何だろう。
個人的な意見としては、「おそらく他の生物には不可能で、人間でのみ可能なこと」が「人間らしさ」につながるのではないかと考えている(つまり「その場の欲求に素直に生きる」ということは、ある意味では「人間らしさとは言えない」のではないか、ということ)。たとえば、「客観性」という概念は、チンパンジーやゴリラにあるだろうか?少なくとも、「客観的に物事を考える」ということが如実に現れる行動はないのではないかと思う(もちろん、どうしたら客観性の有無を証明できるかが非常に難しいのだけれど)。
上記の点についてとくに重要だと感じるのは、「自分にとってどうか」ということに加えて「他者からどう見えるか」という視点が入ってくることである。自分が「客観的にそうである」と言えるのは、「自分にとってそうだし、自分が想像する限りでどんな考え方を持つ人にとってもそうだろう」と思えるからである。言い換えるなら、何かを「客観的だ」と判断する基準の厳しさは、「想像できる他人の考え方」の範囲の広さに依存すると思う。「常識をふりかざす人ほど視野が狭い」というふうに感じるのは、こういう事情からくるのではないだろうか。何にせよ、「他の人がどう考えるか(感じるか)」という観点は、けっこう人間らしいものなのではないかと思う(そういう意味では、客観性というより「間主観性」かもしれないが)。
因みにその意味で、言語を用いたコミュニケーションは、客観性の形成の根幹を成しているのではないかと思う。「他者の視点」が自分の中に形成されるためには、ただ「他者がいる」というだけでなく、「同じ状況でも、自分と他人で受け止め方が違う」ということを認識する必要があると思う。そのためには、言語を用いて「自分なりの状況の解釈」を伝えることが不可欠なのではないだろうか。その一方で、言語があったからといって、必ずしも「他社の視点」が涵養されるわけではないようにも思う。ただ単に「(その状況に居合わせない他人に対して)情報を伝える」というだけでなく、「(おそらく同じ状況に居合わせている他人に対して)自分の視点を伝える」という使い方がされて初めて、「他者の視点」という概念ができるきっかけになるのではないだろうか。そう考えると、言語そのものよりも「他者の視点」という概念の方が、より「人間らしさ」に近いのではないかという気がする。
客観性以外で「他者の視点」が重要な局面はあるだろうか。考えてみると、「集団によるいじめ」でもそういう側面は必要かもしれない。いじめに加担すること・しないことを、いじめている側やいじめられている側がどのように捉えるだろうか、という視点なしには、「いじめに加担する」という選択肢はなかなかとれないのではないかと感じる(まあこの例については、それ以外の観点の方が重要だとは思うけれど)。そういう意味で、残念ながら集団によるいじめには「人間らしさ」が現れている、と思う。逆に、まだ考えがまとまりきっていないのでなんとも言えないけれど、「愛情」というものも、もしかするとこういう観点から特徴付けることが可能なのかもしれないと思う。
このように、「人間らしさ」は「自分の中の他者の視点」によって支えられている、ということができるのではないかと考えている。
「これについて私はこう感じた、あなたはどう感じるか」
「あなた(あの人)はこう感じるだろう、だから(だけど)私はこうする」
こういう言動の積み重ねが、「人間らしい暮らし」に繋がっていくのではないだろうか。