ぐわっぱのできるかな -3ページ目

ぐわっぱのできるかな

考えたことや表現したいこと、活動の履歴。

どうも人がまとまると、積極的にそう思うのではないにせよ「自分たち(だけ)が村八分にされるよりは、村すべてを巻き込んで滅んだ方がよい」という意識が出てくるように感じます。大概の場合、それは「仕組みには問題があるけれど、自分たちにそれをどうこうする立場にはないわけで、従って自分たちは自分たちの仕事をこなしていくしかない」という意識と組み合わさっているように感じます。「無意識的無責任」というべきなのかどうか。無意識な無責任と意識的な無責任とでは、どちらがましなのでしょう。責任をとれるのが一番だし、少なくとも数々の美談ではそのような人々が称揚されているわけですが、そうでない人々を見る場面が多いのも事実だと思います。

どのような道筋でこのような意識が生じるのか、私には今のところはっきりと整理できていません。色々な人の言葉を反芻してみると、もしかすると、自分の弱さを知っているがゆえなのかもしれないと思っています。「自分たちにはどうこうできない」という言葉は「どうこうしようと動いたら、今の自分の立場はなくなってしまう(そうしたら生きてゆけない)」という恐怖と結びついているような気がするのです。逆に言えば、このような意識が生じないためには、「今の自分の立場なしでも、自分はどうにかやっていける」という感覚が必要、ということなのでしょうか?

まあ逆に、無駄に自分に自信がある人たちばかりでも、生きにくい社会になるような気もするわけで、どこに落としどころがあるのか迷っています。

というようなことを、オリンピックのニュースを見ながら思いました。考えてみると、1ヶ月近く更新していなかったのですね。もう少し自分の状況が安定してきたら、週3更新を目指してまた頑張ってみようかと思います。
ディズニー製作の"The Lone Ranger"を見てきました。最近のリメイクもののひとつなだけあって、基本のコンセプトは悪くなかったと思います。今の時代に「正義」をただ連呼しても、滑稽でしかありませんからね。「自分にとっての正義とは、真実とは何か」を問い直すような形になるのは、自然な流れなように感じます。

演出(というかカット割りでしょうか)も、私は好きでした。「古き良き映画」に対する敬意が感じられて、全体的に清々しかったです。ところどころに挟まれるユーモアも、悪意がなくてよかったです。最近、スカッとする映画はラピュタくらいしか観ていなかったので、それは悪くなかったと思います。

しかし、ストーリーの構成は壊滅的でした。観に行く前に、「ストーリーがなくても気にしない」と周囲に語っていた私でしたが、まさかこれほどとは…。「ストーリーがない」わけではなく、あまりに陳腐だったかなあという気がします。マッチョ感が抜け切っていないというか。

主人公の感情の動きだとか、考え方の揺れや変化だとか、そういうのがもっと丁寧に描かれていれば、だいぶ違ったのだろうと思います(その意味での見せ場があったのは、ジョニーデップだけでした)。今のままでも「何も考えずに楽しめる映画」かもしれませんが、その辺りがもっと丁寧なら、きっと「極上のエンターテイメント」になったのではないか、という気がします。

まあ、どうしたらそういうことができるのか私には見当もつかないので、人のことをどうこう言えた立場ではないのですが。
もう一昨日のことになりますが、カレーを作りました。それからは、ひたすらそれを消費する日々です。市販のカレールーは、本当に適当に作っても味が決まるのがすごい、ということをまざまざと思い知りました。

最近は夏バテのせいなのか、その他もろもろがまとめて悪さをしているのか、どうも疲れてばかりな気がします…。そして、周りの人にも迷惑をかけてばかりなような…。せめて積極的に迷惑をお願いできるならまだ諦めようがあるのですが、消極的に振る舞った結果として周りに迷惑をかけてしまう、という状況なのが始末に負えません。実のところ、同じことがもう何年も課題になっているのに、ほとんど改善されていないので、そういう状況になるたびに毎回へこんでいます…。

「今、大変だ!」という信号をうまく周りに発信できること、うじうじせずに周りに助けを求められること、何かあったときに早めに手を打てること、そういったことができていないように思います。ダメな自分を人に見せることにハードルを感じる、というか。鬱屈した状況を、うまく周りに発散していくことが苦手なせいなのかもしれません。

もちろんここ数年で少しずつましにはなっているとは思いますが、まだまだ道は長いです。うまくいくかいかないかの分かれ目の状況を、きちんと察知できるようになりたいものです。