雑話196「藤田の戦争画」
愛らしい少女や、乳白色の肌の裸婦で有名な藤田嗣治ですが、多くの戦争画を手掛けていたことはご存知でしょうか?
藤田嗣治「風船売り」1959年頃
藤田が日本に帰国していた1938年、軍部は美術家の戦争協力を進める方針を打ち出し、戦意高揚を目的とした戦争画の制作が始まりました。
しかし、戦争は絵の題材としては扱いづらく、多くの画家は戸惑っていました。
藤田も当初は気乗りがしなかったのですが、個人的な依頼で描いた作品をきっかけに、戦争画に深く関わるようになっていきました。
個人的な依頼で描いたという作品は、「ノモンハン事件」を題材にした「哈爾哈河畔之戦闘」です。
藤田嗣治「哈爾哈河畔之戦闘」1941年
これは、戦死した部下の鎮魂のためにと、懇々と話を続ける退役軍人の熱意に心を動かされ、制作を引き受けた作品でした。
「哈爾哈河畔之戦闘」(右側部分)
「哈爾哈河畔之戦闘」はそれまでの気の乗らない戦争画に対し、雄大な構図や筆の緻密さによって段違いの完成度を示す作品でした。
「哈爾哈河畔之戦闘」(中央左側部分)
出品された第二回聖戦美術展において、この絵はそのスケールで他の作品を圧し、これぞ戦争画の傑作と絶賛されました。この絵によって藤田は戦争画のスターになったのです。
以後の藤田は、何かを思いつめたように戦争画にのめり込んでいきます。そんな藤田の戦争画の最高傑作といわれるのが、「アッツ島玉砕」です。
藤田嗣治「アッツ島玉砕」1943年
題材となったのは、北太平洋・アリューシャン列島のアッツ島に上陸してきた1万1千のアメリカ第7師団に対して、わずか2,576人の守備隊が玉砕した戦闘でした。
この作品では、それまでの軍の意向に従った戦意高揚を目指したものとは違い、「死」だけが画面を支配する地獄絵のような凄惨な画面となっています。
「アッツ島玉砕」(中央部分)
実際、絵の点検に訪れた陸軍大尉は不満を示しましたが、「アッツ島玉砕」は公表されると、多くの人々の心を揺さぶりました。
こうして戦争画のスターとなった藤田は、時代に迎合する発言を繰り返して、獲得した心地よい立場を存分に利用しましたが、そのことが戦後の藤田に災いを引き起こすことになりました。
戦争画の制作を続けていた画家たちは、敗戦によって戦争責任を問われることを恐れ、藤田一人にその責任を負わせようとしたのです。
日本を旅立つ藤田1949年3月
結局、戦争責任を問われた画家は一人もいませんでしたが、これら一連の騒動で日本の社会に嫌気がさした藤田は、逃げるようにして日本を後にします。
なかなか下りないフランスのビザ取得に痺れを切らした藤田は、アメリカを経由してでも早々に日本を離れようとしました。
念願のフランス帰還を果たした藤田は、フランス国籍取得の申請を行い、名前までレオナール・フジタと変えると、その後二度と日本の土を踏むことはありませんでした。






