憂鬱な朝と向き合う方法・・・自分を苦しめるロック
人に問いかける時、相手から返ってくる言葉を
想定して
言葉を選ぶことは「すがりつく」こと。
自分がどう見られているのか、を
思い描いて
そうなるように振る舞うことは「しがみつく」こと。
未来に起こる「結果を操作」しようと努力すること。
続けることで、それらはエスカレートし、
やめたくてもやめられなくなる。
自分で自分をコントロール出来なくなる。
自分は本当は何を言いたくて、何をしたいのか、
それも分からなくなる。
相手の返事を、あらかじめ想定して言葉を選ぶことは、
相手の「予想できない」言葉や表情を目の当たりに
してしまうのを回避したいという動機から起こる。
現実の成り行きを「見届けなければならない」のを
避けようとする動機がある。
目の前で起こる現実の成り行きと自分との間に
厚い膜を張ってしまうのである。
相手の言葉の意味、口調の変化、表情、
その成り行きを直視しないようにボヤかすこと。
現実を歪めて、それと関わっていくことでもある。
当然、実際に膜が存在する訳ではない。
相手と接触している間、
体がひどく緊張していたり、相手の言葉を「自分なり」に
解釈しようとしていたり、無理に合わせようと
していたりするのである。
身を守ろうとして膜を張るのであるが、
結果的には、自らに負担をかける。
自らに問題を背負わせていく。自分を精神的に追い詰める。
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」はずっと以前からあることも考えられる。
エスカレートし続けていく。
なぜやめられないのか。
それは「苦痛」を恐れる為である。
孤独に「反発するエネルギー」は、対象を
探して、また孤独にかえる。
投げ上げたボールが地面にかえるように
落下していくのと同じだ。
自分の「意欲と願望」は目の前の現実に
向けられて、そしてまた自分にかえる。
そしてその時、何かを「感じる」。
「感じる」ことは、
投げ上げられたボールが返ってきて
落下点で「音をたてる」のと同じである。
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」は
自分の「意欲や願望」を
「そのままの」言葉にしていない。「そのままの」表情にしていない。
自分の「意欲と願望」は、
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」に変わった時、
他者に引き渡されてしまう。
「生理的」に自分のものでなくなる。
そして、不意に突き返される。
投げ上げたボールが誰かに奪われて、
突然に投げつけられるような衝撃になる。
それは大きな心の負担になってしまう。
苦痛になっていく。
なぜ自分の「意欲や願望」を
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」に
変えてしてしまうのか。
自分の「意欲や願望」を認めない環境があるためだ。
「感じていること」を言葉にした時に、
「感じていること」を体で表現した時に、
それを妨げる「誰か」「何か」がある。
その「言葉」「表現」は妨げられ、奪われ、
そして不意に突き返される。
ボールを横から奪われて、突然投げつけられるように。
言葉の暴力、身体的な暴力、そのほかの心理的な暴力、
それらは被害者の「生理的な面」を阻害し、
「苦痛」を感じるように仕向けながら、被害者を操作していく。
それを「加害者」が自覚しているか否かは別にしても。
そのような環境に居合わせてしまった場合、
「苦痛」を回避するようになる。
まず何より苦痛をさけることを動機として
「言葉」を選び、「表現」を選ぶようになると考える。
それが「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」である。
それをやめられないのだから、
それは非常に厄介な心理的「ロック」をかけられている
ようなものである。
憂鬱な朝と向き合う方法・・・なぜやめられないのか?
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」は
エスカレートを続ける。
結果的に心理上の「障害」となる。
その「障害」の重さは
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」の
数に比例する。
投げ上げたボールは自然なアールを描いて
地面に落下する。
私の考える「感情」の姿は、ボールの
「落下点」の姿に当てはまる。
その「落下点の状態」の変化は
「感情」の変化にあたる。
その感情の変化は落下物のエネルギーの
量による。
自然な心はそういうものだと考える。
自然な姿は、安定した姿である。
人の生理は「自然」で「安定」した姿で
あることが望まれる。
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」は
自然な「人の生理」にさし障る。
それが多ければ、心理上の重い「障害」となる。
孤独に「反発するエネルギー」が対象物を探し、
また孤独へかえる。それは重力の働きに従う。
それは心の自然な姿。
人の心の自然な生理。
「すがりついたり」「しがみついたり」は
その自然な生理を中断させる。
自然に行き来するものを「他者」へ
委ねてしまう。
自分のものであった「意欲」は
他の「何か」、他の「誰か」の
ものになってしまう。
本来、自分の生理であったものは安定して
行き返りをする。
しかし、自分の生理から一旦「外れた」場合、
再度自分に返される時には
大きな負担となる。
身構え、緊張し、疲労する。それは苦痛となる。
それが、心理的な生理を破壊する。
結果として、感情を「受け入れる」こと、
感情に「向き合う」ことを拒絶したいという
「生理」が別の部分で起こる。
それまで、投げ上げられ自然に
地面に落ち付いていたボールは
落下する時の
「苦痛」を回避するようになるのである。
生理的な「感覚」は自分が発したものであるからこそ
自然に受け入れられるのである。
それは予防接種という外から加えられる「感覚」を
怖がり逃げ回る幼児を見れば、想像がつくのではないか。
「苦痛」を回避する結果、
「すがりつく」「しがみつく」は繰り返される。
エスカレートしていく。
それをやめればボールは落下してしまうからだ。
そこには「苦痛」が待っている為だ。
いつか「感情」自体、持つことを
恐れるようになる。
そこから考えると
本来受け入れ、向き合うべき「感情」を
回避することと「すがりつく」「しがみつく」は
同時に起こっていることになる。
対して、
心理上の「障害」を解くことと
生理的な健全な心理を取り戻すことは同時に行なえる
ものだと私は考える。
憂鬱な朝と向き合う方法・・・「感情」=「基準」
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」をするのは
今、「感じていること」を言葉にしない、今、「感じていること」を
体で表現しないからだ。
投げ上げたボールはいつかは地面に落ちる。
ボールが落ちてこないとすれば、どこかに留まる
先を探し続けているのである。
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」は
いつまでも落ちてこないボールである。
自然に従えば、始まりがあれば終わりがある。
それと同じで「言葉」や「行動」にも
終わりがある。決着がつかなければならない。
何かに決着がつくときに、初めて
現実を目の当たりにできる。現実と向き合う
機会が訪れる。
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」は
いつまでも決着がつかない。
いつまでも現実に向き合う機会を逃して
いるのである。
ものごとが「まるく」おさまるとか、
誰かと「うまく」やること、
それは形では成り立っている。
そのひとつひとつは、見た目には
決着がついているかも知れない。
しかし、自分自身に決着がついていない。
自分の心には
いつまでも安心が訪れない。緊張がとけない。
すでに終わったはずのことが
「心配」の種として居座り続ける。
投げ上げたボールはいつかは地面に
落下する。
その時、音をたてる。砂埃が上がる。
その現象を目にすることが「現実」を知ること。
現実と向き合うこと。
「すがりつく言葉」「しがみつく振る舞い」を
続けていては今自分の中にある
「感情」を知ることがない。
孤独に「反発するエネルギー」は必ず孤独へかえる。
その落下点には「感覚」が生まれる。
それは「感情」である。落下したボールが
音をたてるのと同じである。
「感情」を知ることは
現実と向き合うことである。
ただ、感情は次に何が出てくるか、
その時になってみないとわからない。
それだけに、孤独なものでもある。
しかし、そこにすべての現実と
「向き合う」為の術がある。
人と距離をちゃんと取ることは
人と向き合っていくことである。
そしてそれが、人と折り合っていく最善の方法である。
しかし、
自分が何を「感じている」のかを知らなければ
いつまでも人と距離を置くことはできない。
それは、「基準」というものを持つことが
出来ていないからだ。
「基準」とは「ありのままの現実」の姿のことである。
それを知っていることで初めて他者と
尺度が生まれる。距離が生まれる。
自分の中に「基準」という現実感を
そなえること。
「基準」こそが、心の感覚。「感情」である。
「感じていること」を言葉にし、
「感じていること」を体で表すことで、
おのずと導かれていくところでもある。