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憂鬱な朝と向き合う方法・・・自分を知れば・・・

人と人がうまく折り合っていくには、

お互いの距離をちゃんと置く必要がある。


すがりついたり、しがみついたりすることでは

決してない。

たとえば、溺れかけた人は誰かに

すがったり、しがみついたりする。

助けを求めた方も、求められた方も、

そのうち力尽きて沈んでしまう。

そんな姿が当てはまる。


距離を置くとは、相手を認めることでもある。

自分と人とは違う。常にそのことを測ることでもある。

何を感じているのか、何を考えているのか、何を今大切に

しているのか。すべて自分と人とは違う。

まったく違うと思って間違いない。そう思う。


もしトラブルの耐えない関係があるとすれば

もう一度、そんなことを考え直してみるべきだ。


では、人とちゃんと距離を置いて関わるには

どうすべきか。

「相手のことを理解し直すべきなのか」

しかし、それこそ困難なのではないかと思う。


ではどうするのか。


自分を理解するべきだろう。そのほうが簡単で早い。


人はすがりついたり、しがみついたりする時に、

その為の「言葉」選ぶ。

その為の「行動」を選ぶ。

ただ、「溺れる人」のように実際に目に見える、

「すがったり」や「しがみついたり」を

することはまず無い。

その代わりに「言葉」や「振る舞い」として行う。


すがりつく言葉、しがみつく振る舞いとは

どんなものか。

それは、

今「感じていること」を言葉にしない。

今「感じていること」を体で表さない。

では、なぜそうしないのか。

それは責任が取れないからだ。

ただ、責任を取ることは規則がどうだとか

モラルがどうだとかではない。

自分が「感じていること」を自分自身で

キープできないからだ。

今「感じていること」を持ったまま

眠りにつくことができないのだ。


「孤独」を回避することは、

「感じていること」を回避することだ。

孤独を逃れる為に

「感じていること」からも逃れる。

それを所有する責任からも逃れる。


自分の「感じていること」に責任が持てなければ、

誰かの意のままに言葉を選び、そして

振舞うことになる。


すがりつく言葉やしがみつく振る舞いは

続けるごとにエスカレートしていく。

そんな言葉や振る舞いをする人を

ズルイ者は操作していく。

自分の思うままに操ろうとする。

それがトラブルを生む。


「感じていること」をキープすることは、

自分自身でいること。

そうすることで初めて相手と距離がうまくとれる。

そうすることで、

「自分と違うことを感じ、考え、大切にする」

と言うことを

人が、言葉と振る舞いによって教えてくれるようになる。


そうするにはまず先に、

自分が何を感じ、何を考え、何を大切にしているのかを

理解することなのだと考える。




憂鬱な朝と向き合う方法・・・心を<自然の法則>に置き換える

孤独に「反発するエネルギー」は対象を探し当て、

その後必ず孤独にかえる。これに例外はない。


その様は、投げ上げたボールが重力によって

地面に吸い寄せられるのと同じである。


ボールが地面に達した時に落下点に圧力が加わる。

その圧力は投げ上げた高さに比例する。

人の感情もその圧力に当てはめられる。

落下点の圧力はさまざま変化する。

人の感情も、「圧力」のさまざまな変化に

当てはめられる。

それが私の考える「心のモデル」である。


人は感情から逃れられない。

地球上の万物が重力から逃れられないのと

同じである。


それを受け入れられず生きることがある。

孤独に反発したエネルギーはまた

孤独にかえる。

それを受け入れられないのは、

「孤独」を恐れる為なのだと思う。


感情を持つことと孤独は

共存する。

なぜなら「何かを感じる」こと、

その代わりを誰もできないからだ。

「孤独」にかえること、

この<自然の法則>を受け入れられなくなると

問題を抱え込むようになる。そう考える。


この<自然の法則>を認め、受け入れていくこと、

それは人が「自立」することである。そう思う。

本当に成人することである。また本当に自由に

なることだ。


「孤独にかえる」のを受け入れられないと、

なぜ問題を抱えこむのか。

それは投げ上げたボールがどうなるのかを、

考えればわかる。

投げ上げたボールがいつまでも地面に

落ちないとすれば、

どこかに留まる必要がある。

孤独にかえることを避け続ければ、

落ちないように「留まり続ける」先を探し

続けなければならなくなる。


それは<自然の法則>に逆行する。

<自然の法則>に逆らうことは

大変な労力を必要とする。

場合によっては、当たりかまわず

「留まり続ける」先を探し続けなければならない。


そんな心の状態は

いつも緊張していて、いつも怯えている。

いつも何かを恐れている。

いつも必死で、どこかにしがみついている。そんな心の姿。


しがみつこうとしている時、そんな時は

しがみつこうとする「他の誰か」に関わる事も多くなる。

動機が一致するとき、人と人との関係は成り立ちやすい。

しかし、それは多大な労力を必要とする関係となる。

トラブルも多くなる。


人の心は大変に複雑で、その

ひとつひとつを分析し問題の解決へ導くのは

困難を極めると思う。そして本当の原因にはたどり着けない。


しかし、<自然の法則>という目に見える形に

置き換えることで

なにを早急に始めなければならないのか、

それが明らかになる。

そう思っている。

憂鬱な朝と向き合う方法・・・「永遠に落下しないボールを持つと・・・」

心とは孤独に反発するエネルギーから生まれると考える。


「反発するエネルギー」は引き寄せられるように、

例外なく孤独へかえる。

その現象を受け入れるか否かに関わらず。

空に投げ上げたボールが必ず地面へ吸い寄せられる

ことと同じである。


ただ、心の中に眼に見える物質の変化はない。

意識がそのような動きをするだけである。


「孤独」=「重力」だと私は考える。

重力がなかったとしたら、人は何かに思い悩んだり

迷ったり、苦しんだりしないだろう。ただ漂うだけである。

その以前に重力がなければ人も存在しなかったのでは

ないだろうか。


孤独にかえれば、そこには感覚が待っている。

「孤独感」というもの。ただ、それだけではない。

さまざま、感情とは孤独にかえるたびに生まれる。

何かを「感じる」とはボールが必ず地面に落ちてくる

ように、決して逃れられないもの。


「反発するエネルギー」は必ず地面にかえってきて、

何かしらの感覚を生み出す。そう考える。

ボールが高く上がれば、落下地点には大きな

力が加わる。低ければ低いなりのまた違う力となる。

人が何かを感じるとはそういうことだ。

ボールの力がさまざまなように、感情も

さまざまだ。


そして、「何かを感じる」のは誰か。自分自身である。

「何かを感じる」ことは自分一人のものである。

誰もその代りをすることはできない。

「何かを感じる」時、人は自分にかえる。

たった一人の自分にかえるのである。それは孤独である。


しかし、そういう逃れられない現実を受け入れられず

生きてしまう。

「感じる」ことを避ければ、孤独も避けられるかもしれない。

しかし、何かを「感じる」ということがこの世界で唯一の真実

ではないか。ありのままの現実を教えてくれるもの。


永遠に落下しないボールを持っていると思い込んで

生きる人がいる。自分がそうだった。

当然、現実というものをありのままに見ることはできなかった。

厚い膜を間にして現実を見ているようなものだった。

常に問題を抱えていた。無理をして生きる苦痛が凄まじかった。

しかし、それをどうすることもできなかった。


今思えばそのまま「感じる」ことがなぜあんなに

困難だったのかと思う。ただそれにはやはり原因があった。


「投げ上げたボール」の行方を心に当てはめると

その原因は見えてくる。


それが私の考える「心のモデル」です。

それを今後書いていきます。