法は変えることが出来るものだ、という確信を持っているかいないかの違いなのかな、と思っている。
私は不都合な制度はどんどん変えればいい、不都合なことが分かっているのに変えないままでいるのは、立法府なり行政府の怠慢だ、とさえ思っている。
私には、多分普通の弁護士や普通の法律家とは違う部分が多いのだと思う。
普通の弁護士は、出来上がった法律の条文を所与のものとして受け容れ、裁判例や学説、様々な行政実例を渉猟し、具体的な事案の解決のために最も有利なものを選び出そうとする。
通常はそれでいいのだが、私はどちらかと言うと、条理を大事にし、何が最も適切な結論か、最も適切な結論に導くためにはそれぞれの条文や先例、裁判例をどう解釈すればいいか、ということを自然に考える。
法の趣旨や制度の趣旨を大事にする。
行政の現場には、そういうところがある。
法の解釈は一義的でなければならないと言いながら、結構柔軟な解釈をする。
時には縮小解釈をしたり、時には拡大解釈をしたりして、妥当な結論を導くためにあれこれ試行錯誤する。
裁判所にもそういうところがある。
文理解釈上多少無理かしら、と思っても、妥当な結論を導き出すために、時には趣旨解釈をしたり、時には制限的解釈をしたりする。
行政に法を作るという側面があるのと同じように、裁判所にも法を作るという側面があるということだ。
そのあたりの感覚が強い人の法解釈は、結構柔軟である。
一番頭が柔らかいのは、言うまでもなく立法府にいる国会議員である。
小林よしのり氏が私を名指しして、私をエセ法律家呼ばわりをしていることを知った。
小林よしのり氏が私をエセ法律家などと言いたくなるのは、私があまり法律の条文に書かれた文言の一言一句に捉われることが少ないからだと思う。
私が行政や司法の現場だけでなく、立法府にいて自ら様々な法律の立案作業に従事したことがあるから、自然にそうなってしまうのだと思う。
小林よしのり氏が、法の条文の解釈について厳格で、いわゆる法匪みたいな法律家を本来の法律家だと想定されているのだったら、たしかに私は国会議員のような物の言い方をする、ということになるのだろう。
ふーん、なるほど、というところだ。
いずれにしても、有識者会議が始まれば、いずれは答えが明らかになることである。
どういう答えが出るか、楽しみにしているところである。