何で自分の意見を分かってくれないのだろうか、と歯噛みするような思いでおられるだろう。
当事者や当事者に近い立場におられると大体そうなってしまう。
人を説得する、人に納得してもらうという作業はそう簡単なことではない。
自分の思いを如何に客観化するか、どうやって相手が納得するようなものにしていくか、ということを考えないで闇雲に自分の思いだけを開陳していくと、あっという間に相手の理解できる領域から外れたところに論点が移ってしまい、焦点がボケると共に、意見交換が中途半端に終了することになってしまう。
自分だけの世界で自己完結型の議論をしているのではないだろうか、自分の言葉は正確に相手に届くだろうか、などということを恐れながら、なるべく相手の心に届くようにと願って、慎重に言葉を選びながら自分の見解を語っていく、というのが大体は私の手法である。
ヒラメの裁判官、という言葉は、だから使わない。
警察の陰謀論、証拠の捏造説も、本当にそういう事実を具体的証拠で証明できるようになるまで滅多に口外しない。
警察と裁判所が結託しているとか、検察と裁判所が結託している、などということも日本ではあり得ないことだから、その類の話が出てきたときはそれ以上の話は話半分で聞くことになる。
しかし法廷に現れた証拠だけが事実ではない、ということも十分承知している。
証人もしばしば嘘を吐くし、証人の証言がしばしば不正確だということは百も承知だ。
法廷に顕出されていない真実を語る証拠がある、ということはそのとおりだと思う。
だから、私は基本的に被告や弁護団側に同情的である。
被告や弁護側の立場で真実を究明し、かつ真実を立証することが如何に困難かを知っているからだ。
なんでこんな簡単なことを裁判所は分かってくれないのだろう。
なんで検察官は本当のことを分かろうとしないのか。
そういう思いを抱いておられる方は、結構多いはずである。
高知白バイ事件で冤罪派の論客と逆冤罪派というレッテルが張られた、どちらかというと具体的な証拠に基づいた徹底的な冤罪主張検証派の論客の方が私のブログのコメント欄で意見交換、紙上公開討論を始められた。
現時点でこういう試みをされている場は外にないようである。
出来れば関係者みんなにとって有益な意見交換になればありがたい。
そのためには、まずは相手方の論理の組み立てをよく心得てご自分の意見を開陳されるのがいいだろう。
ほんのちょっとした工夫で説得力が格段に増すことがあり、時には自分たちの論理や論拠の弱いところに気が付くことがある。
結局は物別れになってしまうかも知れないが、やってみて損はないはずである。
それでは、皆さん、よろしく。