ノーコメントというコメントーこの問題が片付かないと先へ進めない | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

筆が進まなくなった。

目の前にあるイスラム国2億ドル人質事件が解決しないと一歩も前へ進めなくなったような気がしている。
私はテロの危険性が高いと言われるようなところには近づかない、どうしてもそういう場所に行かざるを得ないときは、それなりの覚悟をしていく、万一テロの被害に遭っても他人に泣き言をいうようなことだけはすまい、などと書き始めたら、この段階で自己責任論を持ち出すことが如何にも薄情で、非人間的な振る舞いのように思えてきて、パッタリと筆が止まってしまった。

今、言うべきではない。今、言うようなことではない。
自分自身の気持ちはそうであっても、他人に押し付けるようなことではない。

そう思えてきたのである。

自己責任と言えば自己責任なのだが、テロの被害に遭ってしまうことが自己責任だと言うのはやはりどこかおかしい。
そもそもテロをするのがいけないのだから、テロの被害に遭った人に自己責任だから仕方がないじゃないかと言ってしまえば、テロそのものを正当化するような結果になる。

やはり、ここは自己責任論を持ち出す場面ではない。
仮に自己責任の問題ではないか、と問われても、ここは何も答えない方がいい。

こういう時は、いくら聞かれてもノーコメントで通すしかないのか。
そう思い始めている。

そうか、ノーコメントというコメントの仕方もあるのか。
人質にされた被害者の父親が記者のインタビューに、ノーコメントと答えた理由が分かったような気がする。

今回のテロ事件については、やはりノーコメントがよさそうである。