私自身は、被曝していない。
しかし、自分自身が被曝する可能性がゼロだったかと言うとそうでもない。
昭和20年の9月に長崎県の佐世保市で生を享けているのだから、ナガサキは私と無縁のものではあり得ない。
私の血の中には、ナガサキが眠っている。
私が生まれた佐世保が原爆投下候補地の一つであったことを知ったのは、広島の原爆資料館を訪れた時のことである。
正直、驚いた。
佐世保に原爆が投下されていたら私が生まれてくるはずがなかった。
私の知らない情報が広島の原爆資料館には沢山眠っていた。
日清戦争当時広島に国会が開設されていたということを知ったのも広島の原爆資料館での出来事だった。
世の中には、知らないことが沢山あるものだ。
かつては如何にも物知りの風を装ったこともあるかも知れないが、今の私は、物を知らないことを認めるのに吝かではない。
知らないことは、知らない。
分からないことは、分からない。
本当のことを教えてくれる人が現われたら、素直にその人の言葉に耳を傾けようと思う。
昨日の長崎原爆忌では、被爆者団体の代表の方々から安倍総理に対して相当厳しい批判の声が上がったようだ。
「意見の相違です。」などと簡単に切って捨てられない、深い思いの籠った被爆者の方々の心の底からのメッセージだと思う。
単なる意見ではない。
祈りである。
被爆者の方々の祈りを共有できるか、が問われていると思う。
もし安倍総理に欠けているところがあるとすれば、多分この「祈り」ではなかろうか。
時の総理とは言え、知らないことは知らないはずだ。
戦争のことは知らないはずだ。
被爆者のことも知らないはずだ。
知識の上では知っているとは言えても、本当の苦しみは体験した人でなければ分からない。
「意見の相違」だなどとオウム返しに答えるのではなく、ここはじっと我慢して被爆者団体の皆さんの祈りを素直に受け止めるのがいいと思うが、如何だろうか。