単なる設計主義では法は創れないーどこか理屈を超えたものがあるということについて | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

私は、平常時には平常時に相応しい法、非常時には非常時に相応しい法を求めるしかないと思っている。

アプリオリにこれでなければならない、と言い難いのが現実の法の世界で、その時々の状況で揺れもあれば変動もあり得る。

法ってそんなにいい加減なものですか、とお叱りになる方も出てくるだろうが、決していい加減ではないが、揺らぎも変動もあるのが法である。
所詮はどういう価値を実現するために法はあるのか、ということになる。

法が人を殺したのではいけない。
法が国を滅ぼしたのではいけない。

法は人を生かすためにある。
法は国を支えるためにある。

人を生かすために法の解釈を変えることはある。
国を支えるために法の解釈を変えることもある。

法は、動く。

私の感覚は、そんなところだ。

国家緊急権の議論について実に興味深い文献をご紹介いただいた。
憲法の大家と称される学者の方でも、その時々の社会情勢に合わせて自分の憲法に対する意見を表明されているのだ、ということがよく分かった。
国家緊急権を憲法に規定することになるとずいぶん危ないことになる虞があるから、憲法に国家緊急権なる条項を入れることには反対しておこう、などという小林直樹東大教授の論稿など実に正直なものだ。

私が、こうすることに決めた、などと表現することがあるのも、大体は似たような動機からだ。
決していい加減な選択ではない。
それなりに突き詰めて考えた末に、エイヤッという思いで決めた結論である。

勿論間違った選択であることもあり得る。
しかし、どこかで決めざるを得ないから、ここぞという時にエイヤッと決める。

どこらあたりが落としどころかを見極めて決める。
理屈を超えたものがそこにはある。

単なる設計主義者では、こうはならない。

国民主権を否定する国体主義者の方は、時代に合った新しい憲法を創ろうとする私たちの動きを、設計主義に陥った愚かな作業をやっているぐらいな物言いをしてあやを付けてくるが、私たちのやっていることはそれほど合理的なもの、頭でっかちのものではない。

理屈を超えた何ものかに突き動かされているところがある。

それは何か。

これまで我が国が築いてきた民主主義のあらゆる成果を護りたい、国民一人一人の基本的人権と名誉、安心、安全といったものを護りたい、平和を護りたい、ひいては日本という国を護りたいという願いのようなものである。

国家緊急権を憲法に書き込むことでよりこうした願いが実現するだろうと思うから、私は憲法に非常事態対処条項を書き入れた方がいいと主張している。

しかし、時代の変化、政治状況の変化で必ずしもそうならないかも知れない。
そのことを承知しながら、悪い方向に行かないようになることを願いながら非常事態対処条項を憲法に書き込むことを提唱しているのだから、とことん突き詰めると一種の信仰のようなものである。

〇〇信者さんと結論や運動の方向は違うが、まあ大差はない、ということになろうか。