自分が完全だと思っていると折り合いを付けるのは難しいが、私たちは不完全な存在である | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

どんな場合でも話し合いを纏めたいのなら、自分が絶対正しいなどと突っ張らないことである。
正しい者同士が話し合いをしても纏まる筈がない。
折り合いを付けようとすれば、双方が自分の主張の一部を撤回するか相手に合わせることになる。
元々の自分の主張が絶対に正しいのなら、主張の一部を撤回したことによって正しくないことをしてしまったことになる。

正しい者同士は、妥協が出来ない。
そう思っていたらいい。

勝つか負けるか。
相手を完膚なきまでに論破し、相手を完全に屈服させなければ鉾を収めることが出来ない。
学者同士の議論にはそういうところがある。

学者は絶対に間違いはしないという前提でいるから、一旦口に出したことは簡単に引っ込めるわけには行かない。
前言を翻したり改説したりすると学者としては信用されなくなるから、いつまでも自説に拘る。

まあ、正しい人は交渉事には不向きである。

完璧な人など本当はどこを探してもいないのだが、大抵の人は自惚れが強いから自分がいつも一番正しいと信じている。
「正しい人」は、厄介である。
正しい人を交渉の窓口にしたら、多分交渉の相手と延々と議論を続け、肝腎の物事がいつまでも前に進まず、いつまでも仕上がらない。

私などを自分を欠陥だらけの未熟な人間だと思っているから、よそ様から正しいことを教えていただいたらあっさり兜を脱いで相手の主張を取り入れる。
節操がないと言えば節操がなく、定見がないと言えば確かに定見はない。
しかし、こういう融通無碍なところがないと、なかなか物事は仕上がらないものである。

ドラスティックな改革を必要とするどうしても譲れない政策であれば、いつまでに何をどうするか、というスケジュールを明示してその政策を実現するための具体的なプロセスを明らかにしておく必要がある。

しかし、大抵のことは、話し合いを重ね、互いの主張を突き合わせて落としどころを探していくことになる。
このプロセスが公正に行われればいい。

私たちは、皆不完全な存在である。

そう割り切ってしまえば、案外妥協は最高の知恵の産物だ、ということになるかも知れない。
目指す方向が一緒であれば、細かい政策についての協議や摺り合せは明日でいい。
今は、小異を捨てて大同に就く時である。