策戦参謀を気取られる方々への警告。私たちは捨て駒ではない | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

かつて霞が関ビルが出来た頃、霞が関ビルの最上階の展望フロアから見下ろして眼下の車の流れの美しさに心を奪われたことがあった。
高いところから見下ろすのは、気持ちのいいものである。

何でも一目瞭然。
下にいてはとても見えないものが、高いところにいると見えるようになる。
高いところにいると、大渋滞を起こして前へなかなか進めなくなっている道路の裏道は人通りが少なく、早く目的地に到達できることが分かる。
大所高所に立つ、という感覚はこんなところだろう。

だから、大所高所に立つということは大事なことである。
いわゆる参謀の方々は、高いところから物事を見ているのだと思う。

地上にいて人と同じ目線で物を見ていては決して見えないものを、高いところにいる人は見ることが出来る。
だから、参謀は極めて重要である。

日本の核武装を主張する人は、ある意味で参謀のようなものだ。
普通の国民が認識できないような危険を察知する能力がある。
そういう能力を持っている人の献策は貴重であり、尊重しなければならない。
私は、そう思っている。

と同時に、参謀と称される人々の献策をそのまま受け入れることが危険だということも、私は知っている。

高いところにいると、人が人でないように感じられてくるのだ。
高いところにいると、人を自分の思いのままに動かせる手駒のように感じるようになる。

先の大戦で200万人以上の兵士を失いながら、まだ2000万人の兵士がいる、本土決戦だ、一億総玉砕だなどと主張した参謀たちがいたようだが、こうした参謀たちの頭の中には一人一人の兵士の姿はない。
あるのはマスとしての軍隊であって、人間ではない。

核武装をして他国の侵略から日本を守れ、と主張される方々は、言ってみれば先の大戦における策戦参謀のようなもの。
兵士が何人失われても気にも留めないような非情さがある。

その防衛線を1日だけ死守せよ、などという命令を平気で出せるのが戦争である。
戦争で兵士が犠牲になるのは当然だ、という軍隊特有の感覚がそこにある。
私は、これを否定している。

自衛のための戦闘は自然権としての国家の自衛権の発動であり平和主義を宣明している現行憲法には抵触しないが、無差別の大量虐殺、大量殺傷を目的とする核兵器の行使や保有は現行憲法に抵触する、というのが私の意見である。
策戦参謀を気取ら得る方々は、平気で憲法や法律の制約を潜脱した策戦を献策される。

私のブログの読者の中には極めて有能な策戦参謀がおられるが、うっかりこの方々の献策に乗ったら危険である。
あえて、そう申し上げておく。
私たちは、決して捨て駒ではない。
私たちは、人間である。