大久保被告らの最終弁論をどう読み解くか | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

昨日、陸山会の収支報告書の虚偽記載に関する政治資金規正法違反事件についての被告側の最終弁論が行なわれた。
判決期日が9月26日と指定されているから、ようやく一連の事件についての裁判所の判断が聞けることになる。

裁判所に係属中の事件について第三者があれこれ言っても裁判結果には何の影響もなく、今は裁判所の判断を待つばかりだが、この事件の判決結果が現実の政治に与える影響は大きそうだから、なるべく皆さんが冷静にこの事件の判決を受け止められるようにやや辛口のコメントを残しておく。

大久保隆規被告は、自分が陸山会の会計責任者だったことを認めたうえで、陸山会の経理会計事務、収支報告書の作成や提出などの実務に関与したことは全くなかった、と最終弁論で述べたようだ。

しかし、会計責任者が会計実務には全く関係したことがないという弁解はまず通らない。
こういう弁解が罷り通るようになれば政治資金規正法の潜脱が極めて容易になるから、裁判所は会計責任者の責任を不問にするための要件を厳しく認定するはずである。

会計責任者が病床にあって事務を執ることがそもそも出来なかった、とか、ずっと会計責任者が不在で会計責任者の決済を得ることが出来ず、提出期限が迫っていたため、やむを得ず記載内容の不十分を承知で書類作成事務の担当者が会計責任者の判子を勝手に押してとりあえず提出した、などの事情の存在があれば、会計責任者が全く関与していなかったということが認められるだろうが、会計責任者が会計事務に全く関与していなかったことについて合理的な説明が付かないと、こういう弁解はなかなか通らない。

関係者がみんな否定しているのに何故そうなるのか、と疑問に思われ文句を言われる人もいるだろうが、大体はそうなる。
何故なのか。

裁判所が事実を認定するときは、当然様々な証拠を精査して行なうのだが、つい一般の方が見逃してしまいがちな大事な要素がある。
いわゆる経験則の存在である。
経験則に反する事実を裁判所が認定するときは、経験則を否定するだけの事実関係とこれを立証する証拠を必要とする。

大久保被告の弁解は、どうも経験則には反しているようだ。
会計責任者なのに会計事務には全く関与しないということが果たしてあり得ることだろうか、と裁判所は考える。
勿論、私たちもそう考える。

大久保被告の弁護側の立証がどの程度行なわれ、これがどの程度成功したのか知らないが、新聞に出ている最終弁論の要旨(抜粋の抜粋と思われる)を読む限りは、経験則に反する事実認定をするために必要な特別の事情を証明する詳細な事実関係は殆ど語られていないようだ。
となると、この点についての裁判所の認定は相当厳しくなる、と考えておいた方が無難である。
弁護側の立証のポイントが専ら大久保秘書らへの報告の事実を認めた石川被告らの供述調書の任意性や信用性の否定と当該供述調書の証拠排除に置かれており、経験則を否定すべき特別の事情の立証には余り重点を置かれていなかったとしたら、裁判結果は楽観視しない方がいい。

この事件を担当する裁判官は石川被告らの供述調書の多くを任意性がないとして証拠採用を斥けたが、この証拠排除決定は従前の裁判所の裁判の流れとはやや異質で、上級審がそのまま同じ判断を出すとは限らない、ということも頭の隅に置いておいた方がいい。
この事件の無罪判決を前提に今後の政治活動を組み立てるのは相当に危ないな、というのが私の見立てである。

参考にされるもよし、されぬのもよし。
いつものとおりである。