人間だれしも多少の狂気がある。
批判されることが分かっていても、さらには様々な不利益が出てくるだろうということが分かっていても、それでもやらなければならない時がある。
自分の内部から自分を突き動かすものが出てくる。
止むに止まれぬ思い。
私は、これを大事にしたい。
元々私にはそういう素質があったのだと思うが、子どものころから割に無鉄砲だった。
損得を考えないところがある。
小学生の頃から、弱いもの苛めをする生徒とは身体を張って対決していた。
中学生の時には、父兄が担任の悪口を言っているということを聞いて憤慨し、同級生の残ってもらって緊急クラス会を開催したこともあった。
学校の正規の活動ではない生徒だけの集まりを企画してよそのクラスの黒板にまで会合案内をして、教師の間にひと騒動を起こしたこともある。
修学旅行では、勝手な行動を取っている普段から粗暴な行動を取っている生徒と生活指導の教師が取っ組み合いになっているところに割って入ったりもした。
警察の柔道場に通っており、当時は身体も大きかったから、私の通った中学校では一番腕力があったのだろうと思う。
中学校でもいわゆる不良との対決も辞さなかった。
一度だけ、不良と取っ組み合いの喧嘩をしたことがある。
階段の踊り場のところで普段から問題行動の多い不良グループに囲まれたこともあるくらいだから、結構無茶をしていた。
しかし、それでも負けたこともなく怯むこともなかった。
都立西高に進学したら、生徒会長選挙に誰も名乗りを上げない。
都内でも有数の進学校だったので、皆2年生の頃から勉強一筋になるようだった。
それで、これではならじと私が生徒会長に立候補した。
高校1年生の時のことである。
みんなが尻込みしているから名乗りを上げたのだが、私の無鉄砲さの表れだったろう。
今では何をやったのか覚えていないが、当時はそれなりに意気に感じて動いていたものだ。
様々なことが脳裏に浮かんでくる。
私が自民党の公認候補として衆議院選挙に2度目の挑戦をして敗れた後、小泉総理が彗星のように登場した当時のことが思い出されてくる。
あの時こそ、私が止むに止まれぬ思いから行動した時である。
私のブログのどこかにこの時のことは書いてあるはずだ。
その次は、私が東京弁護士会の副会長をしている時であった。
当時自民党の総務局長をしていた町村信孝氏から私に一本の電話があった。
確か衆議院が解散になった当日のことだったと思う。
私への出馬要請である。
私は、それまで2度、自民党の公認候補として衆議院選挙に立候補し2度とも敗れていたから、2度同じ選挙区で敗れた人は公認しないという党の内規から言えば私の公認はない。
しかも、私は2年前に無所属で参議院選挙に立候補し、自民党の現職の参議院議員に挑戦している。
それでも私への出馬要請があったのは、どうしても地元では候補者を擁立することが出来なかったからである。
東京弁護士会の副会長という職務は、選挙を通じて選ばれるある種の公職である。
簡単に投げ出すことが許されるような職責ではない。
しかし、私は町村氏から電話があったその日に副会長を辞任した。
当然、弁護士の世界でブーイングの嵐が吹き荒ぶことになった。
それは、私の敬愛する恩師ですら表だって私の応援に駆け付けることが憚られるようなものだったと聞いている。
家人にも誰にも相談しなかった。
自分で決めてしまった。
随分怒られたが、当時の私の心境は、まさに已むに已まれぬ思いだった。
私は、今、私の足跡や私の想いを少しでも残すために、私のこれまで書き溜めたブログを基に本を書いている。
買ってくれる人は何人いますか。ほんの僅かですよ。
何度もそう言われる。
そろそろ打ち止めにしようと思うが、しかしまだ終えるわけにはいかない。
私は、今度も已むに已まれぬ思いから動いている。