公募によって選ばれた、ということは、選挙関係者から見て一定の資質があると認められたということだから、そのこと自体誇りにしてよいことである。
しかし、公募で選ばれたからそれでよし、という訳にはいかない。
それこそ現職の国会議員が刑事事件で逮捕され失職したとか、急逝して後継者が見つからない、などという特別の事情がない限り、公募によって選ばれた候補者の前に広がるのは茨の道である。
皆から担ぎ出されて候補者になる人よりも、条件は厳しい。
すべて自分の力で道を切り開いていかなければならない。
選んだ人たちが何か役に立つかと言えば、大抵は役に立たない。
選んだ瞬間に、それでお仕舞いだ。
選ぶことは選ぶが、選んだ後の結果までは責任を負わない。
これが、現在の公募の実態である。
今から公募で候補者を選ぶ選挙区は、8割方は当選が難しい選挙区だということを覚悟しておいた方がいい。
いや、極端なことを言えば、当選することが殆ど不可能だからあえて公募した、と言った方がいい。
当選できるのであれば、市長や県会議員や市会議員の中の元気のいい人が既に名乗りを上げていたはずだから、今の段階での公募に応募するのには大変な勇気がいる。
それでもいいのだ、と思わなければならない。
戦うことに意義を見出す。
挑戦することに意義を見出す。
大義に殉じる、という趣の覚悟が必要である。
こういうことが分かって、なお名乗りを上げる人は武士(サムライ)である。
私は、そういう向こう見ずなサムライが好きだ。