法律万能主義に陥らないようにして法治主義を説く | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

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弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

検察官の処分保留の釈放指揮について、その法律上の根拠を示すべきである、という問題提起がお二人からあった。


こういう問題の指摘は、いいことである。

何か答え難いところがあるから、一生懸命考えるようになる。

実務では当たり前のことと受け止められていることでも、そういう世界にいない人にとっては納得できないことがある。

その違和感がどこから来るのかを突き詰め、何とか納得いただけるような回答を探そうとしているうちに、新たな発見をすることがある。


今、私自身はそういう心境にある。


私は、権力の行使は抑制的であるべきだ、国民の自由や基本的人権の制限はよほどのことがない限りすべきではないし、止むを得ない場合であっても、法律上の根拠を必要とし、かつ、法の適正手続を踏むべきだと考えている。

読者の方の問題提起は、私に対して、そもそも何で警察や検察当局は人を逮捕したり、勾留することができるのか、ということを考える契機を与えてくれた。


おう、これは憲法の問題だ、ということに気がついた。


憲法は、不当に逮捕・拘留されない自由を保障している。

刑事訴訟法に基づく逮捕許可令状や勾留許可令状は、警察や検察当局に一定の事由がある場合に逮捕や勾留を許可するだけで、裁判所が逮捕や勾留を命じているものではない。


職権的な裁判であれば、裁判所が被疑者を逮捕したり勾留することを司法当局に命令する、などという制度も考えられるが、現在の日本の刑事訴訟法制はこれを取っていない。

被疑者の逮捕や勾留について裁判所がその法律上の根拠の有無や必要性を審査し、これをチェックする、というシステムを採用している。


逮捕や勾留で被疑者の身体を拘束をしているのが本則ではなく、身体を拘束されていない自由な状態が本来の姿である。


検察官の釈放指揮は、勾留の継続に必要性や相当性がなくなった、という司法的な判断に基づくもので、その司法的な判断の中に一定の政治的、外交的な配慮が混じったからといって、それだけで違法となるものではない、ということである。


釈放指揮の法律上の根拠を問題にすることは大事だが、これこれの事由がある場合に釈放できるという根拠条文がなければその釈放指揮は違法になる、という論法は、やや法律万能主義に陥る傾向がある。

人の自由を束縛し、人の権利を制限するような条文は抑制的に解釈し、よほどの例外を除き類推解釈や拡張解釈はしない、というのが原則である。

私は、すべてのことを法律の条文に正確に書き込め、というのは法律万能主義に陥る可能性があり、法律の条文は立法趣旨を踏まえてある程度柔軟に解釈することが望ましい、と考えている。


こうした私の立場からすると、検察官の釈放指揮は違法ではない、という結論になる。

これでも違法だと主張されるのなら、その論拠を示していただければ幸いである。


いずれにしてもこうした難しい問題に対して、冷静に、法律的な側面からのアプローチをしていただいたことは大変にありがたいことである。