1月18日 | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

歴史的転換点に何度か立ち会ってきた。


昨日の1月18日は、自民党と民主党の党大会がそれぞれ開催された。

ひょっとしたら、これが歴史の転換点かも知れない。

どちらの党も今年を政治決戦の年と訴えた。


土壇場で底力を発揮する可能性を示した自民党と、相変わらず曖昧戦略で局地戦の勝利を目指す民主党の本当の姿がはっきり見えてきた。


1月18日。

私には忘れることが出来ない日である。


しかし、私にとって忘れることが出来ないはずのこの日のことが脳裏から消えていた。


40年前の1月18日に東大安田講堂の攻防戦があった。

機動隊が大学の構内に入り、全共闘が占拠していた安田講堂を開放し、多くの学生が検挙された日である。

ホースが何本も安田講堂に向けて激しい放水を繰り返していた。


東大法学部の4年生だった私は、いわゆる良識派の学生として、大学の正常化を訴える陣営に属していた。

自分の存在を曖昧にすることは卑怯だと思い、あえて、大学の正常化を訴え、法学部のストライキ解除決議を主導し、さらに全共闘と民青の間に立って、捕虜の交換や話し合いを仲介し、7学部団交をリードする役目を担った学生グループに所属した。

東大の図書館の前で、全共闘のデモ隊がゲバ棒を持って襲いかかったときは、その前面に立って図書館封鎖や研究室の封鎖に抵抗したこともある。


学生の間には全共闘のシンパが多かった。

そういう中で、自分の一生涯を賭けて出来ることでなければすべきではない、社会で通用しないようなこうした破壊活動はすべきではない、そう訴えてきた。


大学解体を叫ぶ声には若者を誘う魅力があった。

既成の秩序を壊して新しいものを創りたい、そういう破壊のエネルギーが充満していた。

しかし、そういう圧倒的な流れに抗しながら、自分自身の立ち位置を決め、体制の中での改革を進める。

苦しい状況の中での私の決断はそこにあった。

別に全共闘の学生を説得できるだけの理論や展望を私が持ち合わせていたわけではない。

ただ、彼らの破壊活動で大学が壊れ、さらに多くの若者が軽率な行動に走って道を誤るのを見ていられなかっただけである。


当時、経済学部の代表として7学部団交の議長団に選ばれたのが、町村信孝前官房長官であり、また法学部の代表を務めたのが成田憲彦駿河台大学学長だ。

環境省の事務次官を務めた後参議院議員になった中川雅治議員や東大法学部の教授だった知的財産権法の権威中山信弘氏なども当時の同志である。


1月18日。


私自身の歩みを振り返る上でも、さらに私自身のこれから歩むべき道筋を決めるためにも、忘れてはならない大事な日である。