伝統保守と穏健保守の違いを述べよ、との問いが投げかけられた。
別にその二つの保守の間に決定的な対立軸があるわけではない。
伝統保守は、強いて言えば、日本古来の伝統や歴史を重視し、国家としての存立、自立を大事にする。
その延長上に国家としての自存権を強調し、先の大戦を自存自衛のための戦争と看做し、極東軍事裁判、東京裁判史観を容認しない。
こういう立場に立つとアメリカとの同盟関係も揺らぎ、勿論中国や韓国とも協調することが難しくなる。
こういう人が時々、自衛のために日本の核武装について議論を封じてはならない、と主張しがちである。
突き詰めていくと、日本は憲法を改正し、軍隊を持つことを明記し、核武装も辞してはならない、ということにもなる。
大変に勇ましいが、私はこういう路線には乗ることが出来ない。
伝統保守の精神論には賛同することが多いが、政治の場でこのような伝統保守の議論が大手を振って歩くようになることは危ないと思っている。
穏健保守と私が表現したのは、特に思想的な背景があるわけではない。
穏健保守に特別の政治思想や理論があるわけではない。
穏健と表現するように、それは一つの態度を言い表わすだけに止まる。
過激な言動を好まず、協調融和を旨とし、あらゆる場合に話し合いで結論を見出すべく懸命の努力を重ねる保守的傾向のある人たち。
これが私が想定した穏健保守の像である。
穏健保守は、自民党にも民主党にも沢山いるはずだ。
そういう思いから、穏健保守の結集を促した。
政治家としては明らかに力不足の人たちが多いだろう。
とことん突き詰めていったら、そんな中途半端なことは許されないはずだ。
そういう声も聞こえるようだ。
しかし、未完成、未熟な保守政治家を一つに束ねていかなければ、日本はこれから安定した堅実保守の路線を歩めないのではないか。
そう思って私は、穏健保守の結集を呼びかけている。