冤罪がなくならない訳/寝ている場合ではない | 早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

早川忠孝の一念発起・日々新たなり 通称「早川学校」

弁護士・元衆議院議員としてあらゆる社会事象について思いの丈を披歴しております。若い方々の羅針盤の一つにでもなればいいと思っておりましたが、もう一歩踏み出すことにしました。新しい世界を作るために、若い人たちとの競争に参加します。猪突猛進、暴走ゴメン。

難しい課題を抱えていると、自分が寝ながらものを考えていることが分かる。


これは寝ている場合ではない。

そう、思って起き出し、今自分の脳裏を占めていることを取り急ぎ記録しておくことにする。


何故、冤罪はなくならないか。

一つには、捜査当局に問題がある。

警察も行政組織の一つである。

税金泥棒などと批判されないためには、仕事をしなければならない。

犯罪が起きないようにするのが本当は仕事なのだが、犯罪がない、というのを警察の仕事の成果になかなかカウントしてもらえない。

結局、犯人の検挙件数などでその成果を競うことになる。


警察における成績主義が、交通安全週間の違反摘発競争になり、普段は何らの対策を講じていないのに、交通安全週間にはあちこちにねずみ取りを仕掛けて、スピード違反や飲酒運転、時にはシートベルト不着用の摘発、ということになる。


拳銃取り締まり月間になると、拳銃の摘発件数を上げるために警察官が暴力団の組員に拳銃を持たせ、これを任意提出させて1件摘発した、などと上司に報告を上げる、などということもある。


選挙の時期になると、選挙違反取り締まり本部を設け、与党陣営から何名、野党陣営から何名の摘発者を出したか、それぞれの警察単位で事実上の競争をさせる。


(早川のところは金が動きそうもないから面白くない。

激しい選挙戦でいかにも金が動きそうなところに狙いを絞って、集中的に取り締まりの対象にする、などということも、当然のことではあるが、いささかこの警察の、成績主義と関係がある。)


その警察に第一次の捜査権限があるから、現場の警察官が何を犯罪と認識し、何を犯罪でないと認識しているかで大変な違いが出てくる。

その警察官に逮捕権限が与えられ、逮捕や捜索押収の令状の請求権がある、ということの意味は大きい。

警察が強制捜査をしながら、結果的に不起訴や無罪になったのでは、強制捜査をした警察の黒星になる。


警察の職責が犯罪の摘発にある、ということが強調されればされるほど、現場は意地になる。

なんとしても犯罪の証拠を探し出し、検察官に起訴させ、有罪判決を勝ち取る。

それが、警察の組織としての目標になってくる。


これまでの日本の刑事司法は、不確実な証拠であっても被疑者の身柄を確保し、警察の留置場に被疑者を収容して、様々な取り調べ方法を駆使してまず被疑者になんとか犯行を自白させようとしてきた。

自白偏重の捜査がこんな風に日本の司法を歪めてきた。


裁判所が厳密に令状審査をすれば、不十分な証拠での令状の発布などは防げるはずだが、時には作成名義人不詳の共犯者の犯行自白調書などが令状請求に利用されたり、別件逮捕が利用されたりする。

現実には令状審査に当たる当直の裁判官が逮捕令状や捜索押収許可令状の発布を却下するなどということはほとんどなく、警察の現場が求めるがままになりがちである。


勾留請求の段階で検察官が被疑者の取り調べに当たるが、警察が作成した装置してきた捜査の穴を若い担当検察官が指摘することも事実上難しい。

せいぜい補充捜査を求めるだけになる。


ということで、検察官も裁判所も、警察の捜査についてチェック機能を十分果たすことが出来ないのが、現状である。


こういった日本の刑事司法の実態を十分認識した上で、立法のあるべき姿を考える必要がある。

何が犯罪であるか、どんな行為が罪に当たるか、よっぽど分かりやすく、明確にしておかなければならない。


犯罪の構成要件を厳密に規定すること。

国民の通常の規範意識とかけ離れたような立法はしないこと。

歯止めが十分かかるような周到な法律に仕上げること。


そして、絶対に冤罪を生まないようにすること。


麻薬の所持や銃砲の所持が罰則で禁止されているが、これは麻薬や拳銃がいわゆる法禁物で、日本では一般の国民の間に流通する虞が殆どないから、その所持を直ちに罰則で禁止しても問題がない。


児童ポルノについては、これまでその所持が禁止されていなかったものであり、いきなりこれを罰則で禁止することは明らかにおかしい。

さらに、児童ポルノの定義が多義的で、人によって解釈が異なっているのが現実である。

これまで摘発事例がない、杞憂だ、と言われても、法を解釈する現場の警察官が犯罪と認知すれば、とりあえず捜査の対象とすることは出来る。


犯罪の予防よりも、犯罪の摘発を自己目的化しやすい警察に事実上の強大な権限が付与されている、ということを冷静に認識すれば、現場の判断でどうにも解釈できるような規定は出来るだけなくしたくなる。


児童ポルノの製造や販売が法律で禁止されている、ということは、国民の共通の理解になっている。

児童の被害を守るためには、その所持も禁止しなければならない、という声が国民の声になってきた以上、立法府として何らかの手当をしなければならない。

ただ、いきなり所持を罰則で禁止することはすべきではない。


そのために、単なる所持の状態だけでは処罰してはならない、という趣旨で、意図的な取得や製造という外形的にも明確な行為を処罰の構成要件に加えることを検討してきた。

こうすれば、単にそこにあった、という事実だけで逮捕したり、捜索押収したりは出来なくなる。


いつ、どこで、誰から譲り受けたのか、いつ、どこで製造したのか。

こういった客観的な事実について証拠を集めなければならなくなる。

これだけで、現場の捜査に一定の歯止めがかかり、捜査の適正化を図る一助になる。


ついでに、この処罰規定は、あくまで被害児童の権利を擁護する目的のためにあり、これを他の目的のために濫用するようhなことがあってはならない、という留意事項を明記することで、警察や検察、さらには裁判所に法の適用や法の解釈の基準を示すことが出来る。


冤罪被害をなんとしても防止したい。そのために、警察も検察も裁判所も厳粛に日本の粗放のあり方を見直すべきである。

そう私たちは、つい先日確認したばかりではないか。

このことは、弁護士や弁護士会も同様ではないか。


立法府である国会には、実に大きな責任がある。

冤罪被害を繰り返さないような周到な法律にどうしても仕上げる必要がある。

それが私の考えである。


私の提案は、少しでも、冤罪の発生の可能性をなくすための提案である。

別に児童ポルノの氾濫を良しとしているわけではない。

被害に遭っている児童に対する救済の充実等に対する検討を怠っているわけでもない。


拙速はいけない。

議員立法は、ついつい一面的になりがちで、危うい。


ここは、法律の実務経験がある私たちの意見に従ってみては、如何か。