政治家の演説には、感心する。
どこの場所に行っても同じ話をする。
どこで笑いをとるか、何分で話を切り上げるか、まるで測ったようである。
私には、到底できない芸当だ。
そのつど考えながら話をするので、とても同じような話にはならない。
人から影響を受けやすいのだろうか、誰かの挨拶が耳に残っていれば、その内容も斟酌しながらの即興の演説になってしまう。
出来不出来の差が大きくなる。面白いが、不安定ということにもなる。
自分ではそれが自然だと思っていたが、どうも違うようだ。
一定のレベル以上の政治家の演説は、厳密な計算の上で行われているようである。
何を取り上げるか、取り上げるテーマの順序や文章にした場合の字数によって、その政治家の関心度が測られるからである。
私には、やはりできない。
自分でもいい挨拶ができたような感じが残るときもあるが、再現できるかというと、まったく思い出せない。
計算して演説の内容を確定していないからだ。
演説の草稿を推敲し始めたら、いつまでも終わらない。
これでは、いつまで経っても私は政治家らしくない、ということになるのだろう。