別記 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

・愛之助の「和藤内」。これからの歌舞伎界にとって、えがたい資質を持っている愛之助だけに「荒事の所作」の基本、「荒事、実事、実悪」などに扮した場合の「発声術」をしっかりと訓練すること。

・愛之助のみならず、若い役者たちはいずれも「飛び六方」など、激しい気合をみせようとして動きが早くなりすぎる。速度を少し落としてもいいから、大きくみせることが肝心だ。

・雀右衛門の「男女道成寺」。先代がかつて辰之助と共演したことがあったということから、今回の七回忌追善では松緑と踊っているのだが、今の雀右衛門にはやはり「京鹿子娘道成寺」を一人で踊ってほしかった。十三回忌の追善には、ぜひともそうしてほしいものだ。

・「於染久松色読販」。玉三郎の「土手のお六」や仁左衛門の「鬼門の喜兵衛」をみていると、やはり今の若い役者にはない、ひと昔前の、味のある「芸」になっている。「間(ま)」のとり方が実にいいからだ。演技以前の、「江戸」の雰囲気を身に纏っているのも貴重である。後輩たちはよく見ておくことだ。

・夜の部の切に、新派の代表的な演目ともいうべき「滝の白糸」が、玉三郎の演出で出されている。幾度も白糸を演じてきた玉三郎が、しっかりとその「型」を伝えてゆこうとする気持ちは、痛いほど分かるのだが、ならばそれは現行の新派の役者たちに向けてのほうがよかったのではないか。今の若い歌舞伎役者には、あの独特の「新派の匂い」など、毛ほども持ち合わせてはいないのである。壱太郎(白糸)や、松也(欣弥)などは、熱演すればするほど、「古典的な新派」の味わいから遠ざかってゆくばかりである。

〔国立劇場  三月〕(22日所見)
・第一は「増補忠臣蔵(本蔵下屋敷)」だが、この「本蔵下屋敷」というタイトルには訂正の用がある。上屋敷とか中屋敷とか下屋敷などは大名家のものであって、たかだか五百石程度の本蔵には無縁のものであるからだ。これは「一条大蔵卿譚」(檜垣)での「還御」という叫び声と同様、すみやかに訂正されなければならぬ。(もうそろそろこうした明瞭に<誤り>と分かるものは、慣例だから、とそのまま残し続けるのではなく、すみやかに訂正されてゆかなければ、正しい伝統の「継承」とはなるまい!)

・若狭之助(鴈治郎)が本蔵(片岡亀蔵)に「これを由良助殿に・・・」と師直屋敷の間取り図を渡しているのは不可。「由良助に」とあるべきだ。大名が他家の大名の、家老に対して敬称を使うことはない。

・続いての菊之助の「髪結新三」。段取りに従って、ひと通りの出来栄えではあったものの、やはり「ニン」にないこの役は、観ていて物足りない。この新三には、入墨者に相応しい暗さ、翳り、卑猥さ、狡猾さなどが不可欠なのだが、菊之助にはそれがない。声を荒げて「悪」を強調しても、体から発散される「悪臭」のようなものが薄いから、悪が効かないのである。


・弥太五郎源七が投げ出す金包みを、中を検めもせずに「たった十両か!」といっているのも不可。ほんの少しだけ検めてから「十両か!」と言わねばならぬところだ。
・「丁度所も寺町・・・」以下の聞かせどころの台詞は、省略せずに言ってほしい。「かがみにかけてふところに、隠しておいたこの匕首、刃物がありゃ鬼に金棒」という部分がすっぽり抜けている。

・片岡亀蔵の「家主長兵衛」などもどっしりとかまえ、新三のような小悪党などいとも簡単にねじ伏せてしまうような様子をみせているのは評価されるとしても、やはり、若い頃には岡場所の女を泣かせたり、長じては入墨者を店子にして良からぬことを考えたりするような、猥雑さ、しぶとさ、狡猾さ、ときとして柔らかく、粘っこく、蛇のように相手の息の根を止めてゆくような凶悪さ、そうした一筋縄ではいかないようなものが、この長兵衛には内包されていなければならないのである。それが亀蔵には不足する。思えば、先代中車や勘弥などにはそうしたものが十分内臓されていた・・・。

・勝奴(萬太郎)は、源七と新三が激しくわたりあっている件に、のんびり煙草をふかしているのは不可。気分は新三と同じように、激しく弥太五郎源七に対していなければならぬ。

・梅枝の忠七は、先代左團次を思わせる風姿。柔らかさ、色気など、申し分のない好演である。