三月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

 歌舞伎座の三月は、四世中村雀右衛門七回忌追善と銘打っての公演である。〔昼の部〕の第一は『国性爺合戦』で、『鴫浜』と『千里が竹』の場は割愛され、『楼門』から『紅流し』までの上演だ。和藤内の愛之助は柄と豊かな音量の台詞に恵まれ、豪快勇壮のなかにも稚気溢れる演技で観客を湧かせているものの、厳しくいえば、その荒事風の発声法や演技術に、まだ学ばねばならぬ余地が相当ある。大きく張り上げた語尾が、最後にグッと下げどまりになる悪い癖。気合漲る剛勇の見得に、反り上がるべき足の親指が全くあがらない。更には、和藤内役者の力量が計られるといってもいい件、すなわち、錦祥女落ち入り前後の、あの立姿が感心しない。確かに両手をぶっちがいに交叉し、足を束にして立ってはいるものの、顔は無心に正面を向いているだけなのだ。しかし、この件では、首をキッパリと左に傾け、錦祥女をしっかりと見なければならぬところだ。錦祥女(扇雀)は、下から見上げる老一官と、手に持つ絵姿とを見比べる件に実力を示す。渚(秀太郎)は、「ただ今ここに」と甘輝に迫ってゆく気組、また、〽︎胸押明くれば」以降の、甘輝、錦祥女との情理をまじえての絡みあいに好技をみせ、老一官(東蔵)には、良き時代の歌舞伎役者に見られた「風」が体に纏綿しているのがいい。甘輝(芝翫)は、重厚な演技で観客の眼を惹きつけ、就中、関羽の見得なども立派なものだが、例によって台詞にキレがないのが瑕瑾である。第二は『男女道成寺』。これが追善の演目となっている。雀右衛門の〽︎真如の月」の件の気品。〽︎恋の手習」〽誰に見しょとて」あたりの、しっとりとした、霑のある艶麗な振りにも酔いしれる。脇からこれを支える狂言師左近の松緑も、長唄、常磐津かけ合いでの〽︎さざ波の」〽︎東そだちは」あたりの軽妙洒脱な踊りには高い評価が与えられよう。第三は『芝浜の革財布』。落語種の新歌舞伎の、軽い世話物だ。芝翫(政五郎)と孝太郎(おたつ)の技量で一応面白く見せてはいるものの、主役をまかせられた折角の機会であるだけに、この二人でのしっかりとした「古典物」を観たかった。

 ︎〔夜の部〕では仁左衛門と玉三郎の共演が二つある。一つめは『於染久松色読販』。全三幕九場の世話物だが、今回は、なかでも名場面とされる『小梅莨屋』と『瓦町油屋』の二場の抜粋となる。玉三郎の土手のお六は元より当たり役。蓮葉な持ち味と鉄火な台詞回し、そして、時折みせる旦那への情愛と、主家を案じる気持ち、悪事露見の件の滑稽味−−−。悪婆と言われる役柄はその全てがなくてはならず、難なく交叉してみせる玉三郎のお六はまさしく絶品というに憚らない。仁左衛門の鬼門の喜兵衛もその凄み・スケール感・悪の色気などが一級品である。共演の二つめは『神田祭』。なんでもないような中幕と思いきや、仁左衛門の鳶頭に玉三郎の芸者と揃うと、これが何にも勝る贅沢となる。歌舞伎は役者で魅せるもの。これといったストーリーもなく、ただ二人の肉体と芸のみの二十分だからこそ、そういった歌舞伎の本質が浮き彫りになったと言える。長年コンビを組んでいた二人だが、第四期歌舞伎座の閉場以後、共演は時々思い出したようにするだけとなり、平成二十六年十月を最後に途絶えていた。それから三年以上が経ち、先月の『七段目』と今月と、二ヶ月続けての共演が実現した。それらの舞台をみてつくづく思ったのは、お互いに呼吸の通じ合う大看板の顔合わせは、歌舞伎の舞台を実に豊かにするということだ。当然といえば当然のことなのだが、最近の歌舞伎界では、その当然が何故だか軽視されがちなだけに、この共演が続いたことは、大袈裟にいえば慶事ですらある。仁左衛門も玉三郎も、芸が円熟期に差し掛かって久しい。今の二人による決定版ともいうべき舞台が、今後も多く上演されることを強く祈りたい。第三は『滝の白糸』。壱太郎の白糸は、いま持てる力は出し尽くしているとは思うものの、まだ手に余っている感がある。村越欣弥の松也は健闘。歌六の春平が素晴らしかった。とはいうものの、この芝居を歌舞伎座でかけるのにはどうも違和感が拭えない。若手揃いの配役ということもそうだが、やはり、新派の代表的な芝居だからでもある。『卯辰橋』のロマンチックな雰囲気や、『法廷』の場のハイカラな演出などは、どうも歌舞伎座には馴染みにくい。初日所見。

(昼の部は和角仁、夜の部は中村達史)