四月歌舞伎座 | 和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

和角仁の「歌舞伎座」辛口寸評

グリデン・ワズミの歌舞伎劇評

 〔昼の部〕の第一は『西郷と勝』である。明治百五十年記念の演目で、真山青果の『江戸城総攻』から、西郷と勝の活躍する部分を松竹芸文室が抽出して、維新の英傑たる二人が、その立場を超越し、深く理会しあって、江戸城の無血開城を決定してゆく経緯を一幕にした作品である。仕科はほとんどない純然たる「台詞劇」である。長い台詞の続くなかで、松緑(西郷)は、「勝先生に俺(おい)は救われ申した」「戦争ほど残酷なものはごわはん!」などの件の「活け殺し」に傑出した資質をみせる。第二は『裏表先代萩』。いうまでもなく「表」は『伽羅先代萩』の世界で「時代」、「裏」はその背後で暗躍する庶民の世界で「世話」である。菊五郎は「下男小助」と「仁木弾正」の二役で巧技をみせるが、見た目は篤実そうにふるまいながら、陰に回れば一筋縄ではいかない小悪党の「小助」のほうに点が入る。力まずに古風な味を漂わすのである。ただ、「問註所」で小十郎(松緑)に、血染めの足跡を提示されても、無表情でいるのは疑問。ここでは、目立たぬよう、一瞬、ひるんだ表情をみせねばならぬところだ。「仁木」は「ニン」ではないものの、外記(東蔵)との立ち回りで凄んでみせる、あの顔の大きさが芝居を古風にしているのが魅力である。時蔵の「政岡」は、立女形らしい「格」があって流石、とは思うものの、八汐(弥十郎)に我が子が惨殺されている件で、かなり悲痛な表情をみせているのは不可。表情を作らず、じっとこらえていなければならぬ。特筆すべきは彦三郎と錦之助。彦三郎の「男之助」はまだ十全とはいわれぬまでも、荒事風の発声をこれほどまでに表出し得る役者は珍しい。「勝元」の錦之助は、この役らしい「爽やかさ」「凛々しさ」があって素晴らしい。団蔵の「道益」も剛欲、好色を纏綿させている演技で佳演といえる。「栄御前」は萬次郎。「お竹」と「沖の井」は孝太郎。「宗益」は権十郎。「大家」は辰緑。斎入の「角左衛門」はミスキャストというより他はない。

〔夜の部〕は『絵本合邦衢』の通し上演。四世鶴屋南北の書いた名作で、スケールの大きな大悪党・大学之助と市井の悪党・太平次、すなわち、時代の悪と世話の悪を、一人の役者が勤めるのが趣向である。仁左衛門五度目の上演だけあって、まさに総決算というべき舞台となった。深編笠をかぶった大学之助が出てくるだけで舞台には不穏な空気が流れ出す。そのまま花道に行き、幕が閉めさせ、観客の視線を花道の仁左衛門一人に集中させる。そうしておいてから悠々と深編笠を外す。そこに現れた仁左衛門の顔の立派なこと。「五十日の鬘」が似合う大きく立派な輪郭、大きな目に鋭く入れられた目張り、頬から顎にかけての青黛の書き方などが素晴らしく、いかにも国崩しの顔である。そのうえ仁左衛門は美しく、豊かな色気まであって、一瞬にして<悪の華>が歌舞伎座に満開になった。その大学之助が、良心の呵責一切なく、平然と悪事の限りを尽くすのは、痛快ですらある。太平次は入墨者の悪党。市井だの世話だの、とはいっても、殺人もすれば人を騙して大金を巻き上げる、相当な悪である。こちらも仁左衛門が楽しそうにイキイキと演じているが、見事なのはその演じ分けである。台詞を張っても、見得をしても、どこまでも前者では時代の演技、後者では世話の演技になっている。そのどちらにも一流なのが仁左衛門の芸境の高さを示している。時蔵のうんざりお松は当たり役。顔立ちがいかにも悪婆らしく、鉄火な台詞回しや、太平次に対してのみ、突然猫撫で声のようになるのもうまい。二役で皐月も勤めている。彌十郎も高橋瀬左衛門・弥十郎の兄弟を一人で勤めていて、ピタリとはまっている。錦之助の与兵衛はその二枚目ぶりが誠に得難い。こういった役柄においては真似てのない演技をみせるようになって久しい錦之助だが、今月は、夭折した四代目時蔵を彷彿とさせていたのも実に印象深い。比較的現代的で端正な美貌の持ち主だと思っていたが、錦之助にも、三代目時蔵に端を発する、あの古風で不可思議な魅力を持つ、萬屋の遺伝子が色濃く流れていることがわかり、嬉しかった。孝太郎のお亀も高い実力をみせている。初日所見。

(昼の部は和角仁、夜の部は中村達史)