八紘一宇の名の下に(新)11. ジャワ島スマラン事件 性奴隷・被害者の証言 | 群青

八紘一宇の名の下に(新)11. ジャワ島スマラン事件 性奴隷・被害者の証言

前話「八紘一宇の名の下に10.」の続編です。

こちらは、インドネシアのジャワ島スマラン州において、旧大日本帝国軍派遣部隊がオランタ゜人女性を強制的に慰安婦にしてしまったもの。戦後のバタヴィア臨時軍法会議

において、売春強要という罪名で関係将校達が裁かれています。
オランダ国の資料ではなく、なんと、日本国法務省に保存されている記録資料から判明しているもの。日本国政府が国連にて主張している「強制連行を示す資料は無い」という主張は、真っ赤な嘘だということです。

●インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号1992年725月より

「スマラン事件のこと 強制連行について」からの抜粋です。

 

 

「スマラン事件」 - 野崎清次中将の証言(インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号1992年7月25日)

 

日本による収容から解放されるオランダ人女性
日本語の宣誓書に署名を求められていた

 

 

 

国立公文書館所蔵の「法務省/平成11年度/4B-23-4915」「法務省/平成11年度/4B-23-4956」


▲日本国法務省に「強制連行」の軍事法廷記録資料がある
日本政府は国連に対して、従軍慰安婦の強制連行を示す資料が無いとしてきました。
また
、「Yahoo!知恵袋」2014..5.29においては
・・・・ 戦後のバタヴィア臨時軍法会議で裁かれ、12名のうち11名が有罪、うち1名が死刑になりましたが、軍法会議の史料は未だに完全公開されていません。

という回答が述べられています。

真っ赤なウソです。国内の法務省の資料があるんです。

 

原資料は、国立公文書館所蔵の「法務省/平成11年度/4B-23-4915」「法務省/平成11年度/4B-23-4956」 A4版で145ページ、和訳されたものです。携帯からは開かないで下さい。

須磨明さんが、2014年6月18日、パタピア裁判における慰安所関係事件開示資料を筆耕され「バタピア裁判における慰安所関係事件開示資料筆耕」とタイトル付けされてまとめられたものです。

 


自分は、数年来、スマラン事件の概要やジャン・ラフ・オハーンさんの証言を収集して来ましたが、国立公文書館所蔵・法務省資料が平成11年6月のものなので、それ以前にはなかったようです。

 

 

同筆耕では、計20人の被害者証言があり、<A04>106-278-281被害者 J.A.O'H 1946.1.10が、ジャン・ラフ・オハーンさんの証言ではないかと推測します。

オランダ王国の軍事法廷記録で、当然に日本国にもこの記録が渡されているものです。現時点でも、親日国のオランダ王国はこの記録を保有している訳です。
少なくとも、同軍事法廷史料を有するオランダ王国は、日本政府主張「強制連行を示す資料が無い」に怒ってよいと思います。


▲被害者の証言<A04>106-278-281 J.A.O'H  (部分抜粋)

J.AO`H (25 歳) 333a/R 双葉荘(青雲荘)下田 アンバラワ (10/01/`46) 宮地医師 

 

私は師範学校在学中でしたが戦争で停学し、その後 1942 年 12 月 30 日アンバラワに、母、妹 2 人と共 に抑留された。 

 

問 本慰安所事件の責任者は何者なりや? 

私の考へでは岡田少佐が主犯であると思ふ。彼はカナリーランの建物から我々を慰安所に連行する指揮をとった。又彼は我々に日本語で書いてある書類に記入署名させたが、内容は説明はなかった。 

 下田は双葉荘の経営者、古谷は一慰安所、森本は日の丸、蔦木は将校クラブの夫々の経営者、其の他にもいるだらうが、私は知らない。 

 

問 慰安所は如何なる機関の下にありたるや? 

憲兵らしかったが、良くは知らない。我々の慰安所にある時 1 名の日本人が来て、我々の 1 名を連れ出して、外で遊ばしてくれた。彼はその時憲兵に見付かるとうるさいからと云ったとのことである。又憲兵は時々来た。 

 

問 如何にして売淫を強制せらるるに到るや? 

44 年 2 月 23 日、3~4 名の日本人がキャンプへ来て、17~28 歳迄の婦人を事務所の側に並ばせた。之等の日本人は婦女達を 1 人 1 人呼び出し、最も侮辱的な方法で頭の先から足の先迄調べた。又この際夫の有無や子供の有無を尋ね、名簿に「 」だの「○」だの印を付けた。彼等の動作が余りにもエゲツナイので、我々は非常な不安を感じて来た。次の日、日本人達は又来て、明らかに撰んだらしい婦人を数名並ばせた。 

 

之等の婦人は又もや日本人の前へ出て撰ばれ直された。会長 Jilderda 夫人は既に始めの時、日本人にその目的を聞いたのだが、彼等は「何も心配なことはない、唯外の事務所で働く者を撰ぶだけだ」と云った 。 

2 月 26 日再び彼等は来て、10 名の夫人を並ばせたが、1 名は病気だったので次の 9 名が並ばせられた。R姉妹、L.L.N、G.v.D、P.v.B、K 夫人、L、C.R、私(J.A.O`H) 

 

それから我々9 名に対して、直ぐに出発するから、荷物を纏めよと云ったが、依然何方へ行くかは知らされなかった。その時全キャンプは大騒ぎを始め、群をなして事務所へ押寄せて来たが、勿論この中には上記の娘達の母親もいた。而して日本人に対し、劇しい抗議が出された。会長も我々をやらすまいとして総ゆることをやったが、結局何にもならず、日本人はジレ出して、やがて 恐しい声で罵言を吐き散し、承知しなければ射つと迄云って脅かした。終に之等の娘達は暴力で自動車 (バス)の中に投げ込まれ、アンバラワにあるもう一つのキャンプに寄って数名の夫人を乗せてからスマランのカナリーラーンの一建物に連れて行かれた。其所で前に述べた岡田少佐が内容は教へずに一枚の紙に署名をさせた。その時には建物の中には志願して慰安婦となって来たものもいた。 

 

岡田の指揮下に数名の慰安所主は我々を撰び取った。G.D、E.L、L.I、G.W、K 夫人、私自身、B.F。 

此の七名は下田に撰ばれて、其の日の夕方 6時半頃バスで双葉荘に連れて行かれた。此処で我々は別々の部屋を指定され、暫く平穏にされてをかれたが、日本人の張番が居て逃げられないやうになっていた 。 

それから数日後我々は下田及もう一人の慰安所主(古谷か森本ならん)の前に呼び出され、今日からは各 人別々の部屋に寝なければならぬ、又我々は日本人の客をとって之と性交を行はねばならぬと告げられた。我々は全員之を拒んだ。すると日本人共は笑ひ出し、もうどうにもならぬ、どうしてもやるのだと云った。 

 

3 月 1 日の晩 7 時半頃我々7 名が椅子に座っていると、私服を着た日本人が 7 名下田と一緒に入って来た。此の中には裁判所の三橋と野崎も居たが他の 4 名の中の一名は和欄語【オランダ語】を話す日本人であった。之等日本人は夫々一名づつ娘を掴へて部屋へ引張って行かうとした。此処で娘達は叫び声をあげて抵抗し、忽ちの中に阿鼻叫喚の光景が現出された。然し娘達は遂部屋に引づり込まれて終った 。私の相手は三橋であった。彼は部屋に入るや否や私を椅子の上に引上げ、嫌らしい真似をし始めた。 私は出来るだけ抵抗し半時間以上彼を殴たり蹴ったりして身を護ったが、終に彼は私を寝台に寝せ、下着類や月経を装って用心の為にもっていた月経帯迄はぎとられ終に暴力を以て処女を破られて終った 。私は此の時はもう肉体、精神の疲れを、どうにもならず終ひには、何の抵抗も出来なくなっていた。私は之以前には全然性交の経験はなかった。後で聞くと他の人も私のやうに暴力を以て陵辱されていた。 

 

唯一人 E・L だけは当時 15 歳だったが、その相手の日本人は何もせず、陵辱は受けずに済んだ。(彼女は後に解放された)L.L.N は野崎に処女を破られ、又 K 夫人は部屋に引張り込まれる時に、一種の癪病症状を呈して叫び出し、吐きました。彼女は他の者に部屋に連れて行かれ、日本人が怖くて近寄らないやうに自らを庇った。彼女は安静にして置かれたが、その時以来気狂ひ(ママ)の仮病を装ひ、数日後に放免された。3 月 2 日から斯くして慰安婦としての仕事が始まった。或者は時には一晩に 3 回から 4 回日本人と寝ることを強制された。私自身は前述通り此の難を遁れることが出来、一日一人以上の客は強制されなかった。我々は絶えざる恐怖に戦きつつ生活したので、日中も殆んど寝られなかった。而して数日の後には、俄かに幽霊のやうになって終った。44 年 4 月末慰安所は閉鎖され5 月10 日にはバイデンゾルク・ コタバリス・キャンプに戻された。 

 

問 何故慰安所は閉鎖されたるや? 

A から聞いた所に依ると、戦前からの彼女の許婚である日本人が彼女の運命を知り東京へ手紙を書いて出したので、東京から全ジャワ慰安所閉鎖の命が来たと云ふことであった。此の命令の来る一寸前、 2 名の私服の日本人が来て、我々に自発的に働いておるや否やを尋ねたが、我々は強制されてやってい 

る旨答へた。其の後も数次に亘って日本人が来ては同様のことを尋ねコタパリスに来てから迄も尋ねられた。 

 

問 慰安所の仕事状況は? 

木曜日と日曜日は下士官にも開放され、他の日は軍属にだけであった。客は一枚一時間 3 盾の切符を買ひ、購入者は自由に相手を探し、性交を行った。この中の一部が婦人達の為に貯へられたが、我々は関心がなかったので、つい其の他は知らない。 

 

問 待遇は如何? 

食事極めて悪し。衛生状態亦悪く。予防具、消毒薬も不十分であった。幸ひ Likel 医師が後に一日本人を通じて、洗浄器、リゾール、ペルマンガン其の他の薬品を内緒で入れてくれたのが、我々の入所時には洗浄器一つなかった。然し客たる日本人は予防具の使用を命ぜられていた。我々の部屋には、張紙がしてあり、之には予防具を使用すべしと書いてあったが、出発の時私は之ともう一枚の紙をはがして来て、後に他の人を通して Zihel 医師に渡した。 

 

問 他の日本人からも何か不愉快なる目に遭ひしや? 

慰安所の生活は私には地獄であった。何時も私は客をとらなければならない時には反抗した。又或時には私は気狂(ママ)の真似をしてみたり、頭の毛を刈って終ったりした。しかし之等のことは何にもならなかった。度々性交を強要する為に暴力が使はれるので、何日も良く歩けなかったり、劇痛を蒙ったりした。他の人からも同様のことを聞いた。 

 

日本人の中には非常に悪い奴が居て、通常性交以外に種々の方法を強要した。然し、之等日本人の名は知らない。 

 

 

●ジャンラフオハーンさん2008年証言講演・メルボルン大学にて

2008年8月、メルボルン大学ロースクールにおけるジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff-O'Herne、1923年 - )の証言講演。 インドネシア・スマラン州において、旧大日本帝国派遣軍により強制連行され、従軍慰安婦として強制的に売春婦にされてしまったオランダ人女性です。

和訳字幕にてテロップが出ます。

 

 

現在でも悪夢にうなされ、また結婚後も流産が続いてきたというのです。

 

 

 

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