スマラン事件のこと 強制連行について | 群青

スマラン事件のこと 強制連行について

従軍慰安婦とは、当時の名前でいうと軍慰安所従業婦が正式のものである。
国連では、女子差別撤廃委員会により、女性の人権擁護確立のため、批准各国の状況について審査し、問題があれば改善措置を勧告する仕組みを実行している。


この2月16日、日本政府代表がいわゆる強制連行を示す資料がなかったとしている。
この発言による強制連行とは「軍や官憲が直接的に女性を拘束して」という意味で使われている。
強制連行の言葉は、狭い意味ではそうであるが、民間女衒による従事職業等嘘の甘言と契約の場合、誘拐に当たるものである。
強制性は、女性の人権を確立することへ向けて、前線現地に着いてからの性奉仕の強制、故郷に自力で帰国できない拘束性についてこそ、言及されるべきであるが、その点を朝日新聞の誤報に摩り替えているように見える。
軍慰安所従業婦は、手続き的に、自由意思により廃業・離脱することはできず派遣部隊将校の許可が必要だったのだから。
その点をすり替えるため、狭い意味に固執し続けている日本政府であると思う。
なお、確かに併合時代の韓国では直接的な「いわゆる強制連行」の史料がないであろうが、実は、占領中のジャワ島では、オランダ女性等を軍高官が直接的に選定し軍トラックで移送し、売春宿にて日本刀を振りかざす等の売春を強要している。
すでにこの事件については、オランダ女性が米国議会下院で証言をしていたが、その中で大日本帝国軍の直接的な強制連行は証言されていた。
オランダ王国では、バタピア裁判記録は公式 のもの。

須磨さんという方が、2014年6月、新しくバタビア裁判の開示資料を和訳筆耕されているため、その資料をアップしておく。
重ね重ねですけど、断っておきます。
須磨さんの元資料は、国立公文書館所蔵の「法務省/平成11年度/4B-23-4915」「法務省/平成11年度/4B-23-4956」。日本政府機関たる公文書館に保管されているものなので、この2月16日、国連における日本政府の主張は大きな間違いであることが明らかです。
・・・というか、オランダ王国の公式資料のことは分かっていて、確信犯で誤魔化そうというのではないかなと思うが。


■ 「強制連行確認できず」=慰安婦問題で日本説明―国連委 時事通信 2016年2月16日(火)22時7分配信

【ジュネーブ時事】国連女子差別撤廃委員会の対日審査が16日、ジュネーブの国連欧州本部で行われた。


杉山晋輔外務審議官は慰安婦問題について、「日本政府が発見した資料の中には軍や官憲による、いわゆる強制連行を確認できるものはなかった」と説明した。

政府は1月に委員会の質問に対して提出した答弁書で、既にこうした日本政府の立場を回答。これを受け、韓国外務省報道官が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した2015年12月の日韓合意の精神を損なう言動を控えるよう求めた経緯があり、今回も韓国政府の反発が予想される。


杉山氏は韓国・済州島で女性を強制連行したという故・吉田清治氏の証言によって、強制連行の見方が流布されたと指摘。この内容が朝日新聞に報道され、国際社会に大きな影響を与えたが、証言は研究者によって「想像の産物」と証明され、朝日新聞も事実関係の誤りを認めていると説明した。


■2007年2月15日 米国・ワシントンの米連邦議会下院外交委員会アジア・太平洋・地球環境小委員会 公聴会 

オランダ人女性(現在オーストラリア在住)、ジャン・ラフ・オヘルンさんの証言は次のとおりです。

 △ オランダ人元「従軍慰安婦」 ジャン・ラフ・オヘルンさん(84歳)の証言

 
 ファレオマベエンガ議長、そして小委員会の委員の皆さん:
 
 「従軍慰安婦」の悲惨さに関する、こうした公聴会を開いていただき感謝申し上げます。わたしは、他の2人の生存者である、「日本軍用性奴隷として徴用された女性たちのための韓国評議会」の李容珠(イ・ヨンス)さんと、「韓米交流教育委員会」の金君子(キム・クンジャ)さんとともに、今日皆さんの前で、わたしたちの体験談を分け合うことを喜びとするものであります。

 わたしはまた、「下院決議案121号」を提案したマイケル・ホンダ下院議員に対しても感謝申し上げたい。その決議案は、日本政府に対し「公式かつ明確な」謝罪と「歴史的な責任を取る」ことを要求しているものであります。そしてわたしは、わたしたちに正義が訪れる希望のなかで、世界に対して体験を物語ることができるよう、生き証人として招いてくださったファレオマベエンガ議長に感謝致します。

 ひとりの女性としての戦時中のわたしの体験は、人間としての尊厳を完璧に踏みにじるものであり、恥辱であり、耐えがたい苦痛であります。第2次大戦中、わたしは日本軍の、いわゆる「従軍慰安婦」になることを強制させられました。「従軍慰安婦」とは、性の奴隷をごまかした呼び名であります。

 わたしは1923年に、オランダ領東インド(現在のインドネシア)のジャワで、オランダ人入植一家の第4世代として生まれました。わたしはサトウキビの農園で育ち、最も素晴らしい少女時代を過ごしました。わたしはカトリックの学校で教育を受け、ジャワのセマランにあったフランシスコ派の教員大学を卒業しました。

 わたしが19歳だった1942年に、日本軍がジャワに侵攻して来ました。わたしはそれから3年半、数千人の(オランダ人)婦女子とともに、日本の駐屯地刑務所(prison camp)に閉じ込められたのです。日本の駐屯地刑務所でオランダ人女性たちの受けた恐怖、残虐行為、苦痛、飢餓に関しては多くの証言が語られています。しかし、ひとつの物語だけは決して語られることはありませんでした。第2次大戦中、日本人によって行われた最も恥ずべき人権侵害の物語:すなわち「従軍慰安婦(Comfort Women)」、ジュウグン・イアンフ(jugun ianfu)の物語がそれです。これらの女性たちがどのようにして、自分の意志に反し強制的に身柄を拘束され、日本帝国の軍隊のために性的サービスを強制されたかの物語です。

 わたしが駐屯地刑務所で拘束されて2年が経った1944年のことです。日本軍の高官たちが駐屯地にやって来ました。そしてこう命令しました。17歳以上のすべての独身女性は、駐屯地内に整列しろ、というのです。将校たちはわたしたちに向かって歩いて来ました。選別作業が始まったのです。彼らはわたしたちの列を行ったり来たりしながら、上から下までじろじろ見ました。わたしたちのからだや脚を見たり、指でわたしたちのあごを引き上げたりしました。そして10人を選び出したのです。そのなかにわたしも含まれていました。わたしたちは連行されたときと同様、小さなバッグひとつで、来るよう命令されました。駐屯地で拘束されていた全員が抗議しました。わたしたちの母親たちはわたしたちを取り戻そうと懸命でした。わたしは再会がかなうものかも知らず、母親と抱き合いました。わたしたちは軍用トラックに放り込まれました。わたしたちは恐ろしくて、バッグにしがみつき、互いに身を寄せ合いました。

 日本軍のトラックは、サマランの町の、オランダの植民者の大きな住宅の前でとまりました。車から降りろ、と命令されました。その家に入って、そこがどんな家なのかすぐに気づきました。日本の軍人のひとりがわたしたちに言いました。わたしたちは日本人に対して性的な楽しみを与えるためにここにいるのだと。その家は売春宿でした

 わたしたちは声をあげて抗議しました。わたしたちは、自分たちの意志に反して無理矢理、ここに連れて来られたと言いました。彼らには、それをわたしたちにする権利はないことを言いました。それはジュネーブ条約に違反することであるとも言いました。しかし、彼らはわたしたちをあざ笑い、わたしたちを自分の思い通りにできるんだと言いました。わたしたちは日本人の名前をつけられ、ベッドルームのドアのところへ張り出されました。

 わたしたちはとても純潔な世代でした。わたしはセックスのことは何も知りませんでした。その売春宿の「オープニング・ナイト」の恐ろしい思い出は、わたしの人生のすべてを通し、わたしの心を拷問にかけて来たのです。わたしたちは食堂(ダイニング・ルーム)に行くよう命じられました。家中、日本軍の軍人だらけなのを見て、わたしたちは恐怖で身を寄せ合いました。わたしは祈祷書を取り出し、わたしたちを助けてくださいと、少女たちと一緒に祈りを捧げました。彼らはわたしたちを引きずり出し始めました。ひとり、またひとりと。ベッドルームから悲鳴が聞こえて来ました。わたしは食卓の下に隠れましたが、すぐ見つかってしまいました。わたしはその男と闘いました。力を振り絞ってキックしました。その日本軍将校は、わたしがすすんで自分を差し出さないことに、ものすごく腹を立てました。鞘から刀を抜いて、わたしに突きつけました。わたしを刀で脅し、わたしが言うことを聞かないなら殺すと言いました。わたしは部屋の隅で、もう逃げることのできない狩りで追い詰められた動物のように、からだを縮こませました。わたしは死ぬことを恐れていないことを彼に理解させました。わたしはすこしお祈りさせてくれるよう哀願しました。わたしが祈っている間、彼はわたしの服を脱がせ始めました。彼はわたしを殺す気はなかったのです。わたしに死なれてはよくなかったのです。

 それから彼はわたしをベッドに放り投げ、わたしの服を引き裂きました。かれは、ネズミをつかまえた猫のように、はだかのわたしの体の上に刀を走らせました。わたしはなお戦おうとしました。しかし、彼はわたしの上に乗って来て、わたしを重いからだで釘付けにしました。かれはわたしを最も残酷なしかたでレイプしました。わたしの顔を涙が伝いました。わたしは彼はいつまでもわたしを犯し続けると思いました。

 彼がようやく部屋を出ていくと、わたしのからだは震え上がりました。服をかき集め、バスルームに逃げ込みました。そこでわたしは、数人の少女と会いました。わたしたちはみんなで泣きました。わたしたちは完全にショック状態でした。バスルームでわたしは、わたしのからだから汚れと恥辱を洗い去ろうと懸命になりました。とにかく、洗い去ってしまおう。しかし、夜は終わっていませでした。ほかの日本人たちが待っていたのです。夜通し続きました。しかし、それは始まりに過ぎませんでした。来る週も来る週も、来る月の来る月も。

 その家は完璧に警備され、逃げることは出来ませんでした。わたしはときどき身を隠しましたが、いつも見つかり、自分の部屋に引き立てられました。わたしは(身を守るため)何でもしました。髪を全部切り落としました。丸坊主になりました。醜くなれば、だれもわたしを欲しがらなくなると思ったからです。しかし、逆にそれがわたしを関心の的にしてしまいました。彼らはみな、髪を切ったわたしを求めるようになったのです。逆効果でした。

 日本人は誰ひとりとして、わたしの抵抗を受けずにわたしをレイプできませんでした。わたしは全員と闘いました。そのため、わたしは繰り返し殴打されました。いわゆる「慰安所(Comfort Station)」でわたしは日夜、組織的な殴打とレイプを受けていたのです。わたしたちの性病を検査に来る日本人の軍医たちも、毎回かならずわたしをレイプしました。それどころかわたしたちをさらに辱めるため、検査の最中、ドアを開け放しにして、検査されているわたしたちの姿を日本人たちに見せたのです。

 「慰安所」にいる間、日本人たちはわたしを弄び、辱めました。わたしは引き裂かれ、バラバラにされたからだで、放置されていました。日本の兵士たちは、わたしの若い命を台無しにしたのです。わたしの全てを奪い去りました。わたしの若さを、わたしの尊厳を、わたしの自由を、わたしの所有物を、わたしの家族を奪い去ったのです。しかし、ひとつだけ、かれらが奪う去ることのできないものがありました。それはわたしの信仰と神への愛でした。これだけはわたしのものであって、だれもわたしから奪い去ることはできない。わたしが、日本人がわたしにした全てのことを生き延びることができたのは、深い信仰があったからです。

 わたしは日本人たちがわたしにしたことについて、彼らを許しています。しかし、わたしは決して忘れることができないのです(I have forgiven the Japanese for what they did to me, but I can never forget.)。50年間、「慰安婦」たちは沈黙を守り続けて来ました。彼女たちは汚辱にまみれた、恐ろしい恥辱を生きたのです。こうした女性たちの台無しにされた人生が人道問題となるのに、50年という歳月がかかったのです。

 「従軍慰安婦」にとって、戦争は決して終わらなかった。わたしたちはなお悪夢を見続けているのです。わたし自身、戦争が終わったあと、からだを元通りにするのに大手術を受けなければなりませんでした。

 1992年に韓国の「従軍慰安婦」たちが沈黙を破ってくれました。キム・ハクスンさんは最初に声を上げた方であります。わたしは韓国人の彼女たちが日本政府から、正義と謝罪と償いを求める姿をテレビで観たのです。わたしは彼女たちを支えようと決心しました。わたしは1992年12月、東京で開かれた、日本の戦争犯罪に関する国際公聴会で、わたし自身の沈黙を破り、第2次大戦における最悪の人権侵害のひとつである、忘れられたホロコーストを明らかにしたのです。

 わたしは過去15年にわたって、オーストラリアや諸外国で生きる「従軍慰安婦」たちの悲惨や、戦火のなかにある女性たちのため、倦むことなく活動して参りました。いまや、時間は限られています。60年後のいまこそ、「従軍慰安婦」に正義は与えられるべきであります。「従軍慰安婦」たちは、日本政府から、安部(※原文ママ)晋三首相自身から公式の謝罪を受けるに価いするものであります。日本政府はその戦争犯罪に対して全責任を引き受けなければなりません。

 1995年、犠牲者に補償するため「アジア女性基金」がつくられました。この基金は、「従軍慰安婦」に対する侮辱であります。わたしを含む彼女たちは受け取りを拒否しました。基金は民間で基金であり、資金は日本政府からではなく民間の団体からのものであります。日本は自身の歴史と向き合い、戦時中の残虐行為を認める必要があります。日本人は過去の過ちにかんする正しい歴史を教えなえければなりません。

 「従軍慰安婦」が体験を証言することは重要なことであります。議長、そして小委員会の委員のみなさん、わたしの物語を分け合う機会をくださって感謝申し上げます。わたしは、公の場でお話することで、世界の平和と和解に貢献することができるとともに、女性に対する人権侵害が二度と起こらないことを望むものであります

 ありがとうございました。


■ 白馬・スマラン事件で性奴隷(慰安婦)にされた被害者の証言 YouTube 2013年4月3日

2008年8月、メルボルン大学ロースクールにおけるジャン・ラフ・オハーン(Jan Ruff-O'Herne、1923年 - )の証言講演。
和訳字幕にてテロップが出ます。


■バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料筆耕 須磨明 2014年6月18日

原資料は、国立公文書館所蔵の「法務省/平成11年度/4B-23-4915」「法務省/平成11年度/4B-23-4956」
A4版で145ページ、和訳されたものです。
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自分は、数年来、スマラン事件の概要やジャン・ラフ・オヘルンさんの証言を収集して来ましたが、この史料は初めて見ます。一昨年6月のものなので、それ以前にはなかったようです。
被害者A04が、ジャン・ラフ・オヘルンさんの証言ではないかと推測する。

このように、日本国の法務省資料でも、「強制連行」「売春強要」「強姦罪」を裏付けるものが保存されている。
併合時代の韓国のことだけで「強制連行を示す証拠資料はなかった」と、日本政府側は国連女子差別撤廃委員会で主張しているが、自分の足元を調べもせずに、大きな間違い。
少なくとも、同軍事法廷史料を有するオランダ王国は、この日本政府発言に怒ってよいと思う。


ジャワ・スマラン02 ジャワ・スマラン01


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