八紘一宇の名の下に(新)06 その4 マニラ市街戦 ラ・サール学院の大虐殺 | 群青

八紘一宇の名の下に(新)06 その4 マニラ市街戦 ラ・サール学院の大虐殺

1945年2~3月のフィリピン・マニラ市街戦は、当ブログで5つをアップしております。
06 「マニラ市街戦」その1-1.林博史さん2012年1月論文5月22日

06 「マニラ市街戦」その1-2.林博史さん論文5月22日

06 その1-3.ベィビューホテル事件被害者証言5月22日
06 その2.1945年フィリピン・死臭と怒り5月28日

〇06 その3. マニラ海軍防衛隊のこと 12月2日

 

大日本帝国軍派遣部隊による相当数の虐殺が、BC級戦犯裁判記録でも記録されていて、生々しいです。

下にアップしたものは、中野 聡 さん(一橋大学大学院社会学研究科教員)によるもので、今日マニラにおいてどう記憶されているか・・・・というもの。

■ De La Salle Massacre (12 February 1945) マニラ市街戦・ラサール学院での虐殺事件(1945年2月12日) WINDOWS OF HISToRY · by NAKANO Satoshi


具体的には、1945年2月12日「ラ・サール学校の虐殺」と言われているもの。
ラ・サールは現存する大学で、日本の学生さんも留学している方がいる。そして確か、武蔵新城のMarrieの息子さんが先生をしているはずだが。

 

 

その学校でも、71年前にそんな大虐殺があったとは・・・・。
証言者は、事件の生存者たるフランシス・J・コスグレイヴ神父。供述は1945年3月6日。つまり虐殺事件後1カ月も経っていない。


●マニラの悲劇・・・ラ・サール学校の虐殺
中野さんが紹介しているのは、長崎被爆・永井博士の随筆集に合本された「マニラの悲劇」というもの。
全11章は、次のとおり。

第1章 スペイン人居住区の被りたる被害
第2章 ラ・サール学校の虐殺
第3章 日本軍によるキリスト教会の破壊
第4章 日本軍による赤十字病院の破壊・看護婦および患者の殺戮
第5章 地下牢における餓死
第6章 日本軍による幼児刺殺および街路上の非戦闘員射撃
第7章 日本軍の婦女子に対する縛手、殴打、殺害の事実
第8章 日本軍による器物への放火、婦女子の焼殺
第9章 日本軍による一般市民の大量虐殺
第10章 日本軍による少女の乳首および幼児の腕の切断
第11章 これらの事実は否認することができない


●コスグレイヴ神父の供述抜粋

(前略)1945年2月12日、月曜日、昼食をすませた直後、砲弾を避けるために我々は皆建物の南側の階段の下に集まっていた。そこへ二十名の兵士を連れた日本軍士官が入ってきて二人の使用人を拉致し去った。五分後、二人は戻されてきたが、どちらもひどく傷ついていた。ついで士官は何か命令を下した。ただちに兵士たちは、われわれに銃剣を向けはじめた。男も女も子供たちも区別がなかった。若干のものは、辛うじて階上に逃げることができた。兵士たちは彼らを追いかけた。若干の人々は礼拝堂の入口で刺された。他のものは同じく堂内で刺された。誰かが士官に抵抗しようとしても、たちまちピストルで討たれるか、白刃を浴びせられるかに過ぎず、その結果、刺突による負傷のほか、若干の人々はさらに重い傷をうけた。子供たちの中には、二才か三才、またはそれ以下の幼児すらも混っていたが、それらの幼児たちも大人たちと同じ仕打ちに遭ったのである。刺突を終えると、日本軍は屍体を略奪し、階段の下に投げ込み、積み上げた。生きている人々の上に屍体が重なった。即死したものは多くはなかった。小数のものは一、二時間のうちに息が絶え、その残りの人々は出血が甚だしいため次第に衰弱していった。
兵士たちは出てゆき、
やがて建物の外で飲んだり騒いだりする声が聞こえた。午後の間、彼らはしばしばわれわれを監視するために入ってき、犠牲者の苦痛を見て笑ったり嘲ったりした
われわれは、夜にいたるまで、そこにとどまっていた。その間に、負傷者の多くが死んでいった。(後略)

[『復刻版 日本の原爆記録2 長崎の鐘ほか』日本図書センター、1991年]。

 

●ラ・サール学院

中野さんの記述です。
・・・・ ラ・サール学院の校舎は現代も当時のままに残っています。修道士や避難民が日本軍に襲われ、逃げまどった階段や礼拝堂も当時のままに残されており、事件の犠牲者を追悼する慰霊の銘板が設置されています。

 

2007年2月12日には、市民団体メモラーレ・マニラ1945が主催する追悼式が同校で開催され、日本軍の残虐行為を描いた戦争画が寄贈されました(下記写真はそのときの様子)。現在も掲示されているかどうかは確認していません。


 

 

 

帝国軍将兵は、学校で逃げ惑う避難住民や修道士達を追い回し、男女の区別なく、乳幼児も含めて突き刺し山と積み上げ、息絶え絶えに苦しむ姿をあざけり笑っていた・・・という。
刺殺後は飲んだり騒いだりという将兵達の模様も異様ではないか・・・・。
大日本帝国軍ははたして何と戦っていたのか、全く解せない。ただただ狂気の極みである。

 

●インスラムロスMemorare Manila 1945 Monumentと追悼式
最近も、どうやら、大虐殺に対する追悼式がマニラでは継続されているようだ。


 

(中野さんFaceBookによる説明) Memorare Manila: メモラーレ マニラ

1945 Monumentは、マニラ市街戦(1945.2.3-3.3)50周年を期して、マニラ市街戦における非戦闘員の犠牲者を追悼する碑として、市民団体Memorare Manila 1945の委嘱によりフィリピンの彫刻家Peter de Guzumanが制作、1995年2月18日に除幕式・第1回の追悼祈念式が行われました。それ以来、20年間余りにわたって、第2次世界大戦におけるフィリピンの民間人の犠牲を象徴する記念碑として今日まで知られてきました。この碑はマニラのなかでもスペイン時代に作られた城塞に囲まれた旧市街イントラムロスの中にあり、サン・アウグスティン教会やマニラ大聖堂のほど近くに位置しています。
 

下は、2011年2月。

 


      (写真に付した番号を参照してください)。

1.ミグエル・ペレス・ルビオ氏(元・大統領府儀典長):1945年2月12日、家族の全員をルビオ邸にて日本軍に虐殺された(本人はゲリラとして市外で戦闘、難を逃れた)。

2.故フアン・ロチャ(元・スペイン大使):母親が米軍砲撃で破片を受けて死亡、親族11名が日本軍に殺害された。

3.ローデス・モンティノーラ(極東大学総長):2月9日、本人をのぞく家族全員が自宅に乱入した日本兵に殺害された。

4.イサベル・カーロ・ウィルソン(元・スペイン大使):ベイビュー・ホテル事件(多くの女性が監禁・レイプされた)で難を逃れた目撃者。

5.ジェンマ・クルス・アラネタ(1964年ミス・インターナショナル):母カルメン・ゲレロ・ナクピルとマニラ戦を生きのびるが、日本軍憲兵隊に拉致された父・祖父らクルス家

男性全員が殺害された。


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