八紘一宇の名の下に(新)06 その2.1945年フィリピン・死臭と怒り | 群青

八紘一宇の名の下に(新)06 その2.1945年フィリピン・死臭と怒り

「八紘一宇の名の下に(新)」06.1-3から続きます。

 

1945年マニラ市街戦のことです。林博史さん掘り起しに次いで、永井均さん著「フィリピンBC級戦犯裁判」の掘り起しの一部抜粋です。

多数のフィリピン人が幼児も含めて残酷な殺し方で殺害され、骸の山とされている事は、林博史さん掘り起しから分かかりましたが、こちらは、もう少し詳述されています。また、大統領になる前のキリノ(大統領)の奥さんと子ども達が自宅で殺されている模様が描かれています。
そして後半部は、降伏後の大日本帝国軍将兵移送の模様。

ハポン、ドロボー、バカヤロー。ハポン、ドロボー、パタイ(タガログ語で死ねの意味)。
米軍移送部隊が威嚇射撃をしなければ、怒りに激昂した中、列車移送捕虜将兵達は、フィリピン人住民から報復で殺されていたんでは無いでしょうか・・・・。

 

●報じられる「日本軍の暴虐」より(一部)
抜き書きです。


マニラ戦直後から、被害に遭った本人や目撃者、あるいは事件を伝え聞いた人たちの間で「日本軍の暴虐」の話が広まっていた。マニラ戦終結後、一ヶ月もすると、現地の新聞に日本軍の残虐行為関連の記事が掲載されるようになる。市内の小学校では、マニラ戦下の個人的な体験をクラスごとに記録に残す作業も手がけられた。
「フランゲル、自分の将来を殺人犯への復讐に捧げると力説」。

1945年2月、マニラ近郊パサイのバラグラス通りで妻を射殺され、その返り血を浴びたウォルター・フランゲル医師が、日本人に対する復讐を誓ったように、被害者たちは日本軍への怒りの声を上げた。

マニラ戦でフィリピン人民間人を殺戮していく日本軍に怒ったフィリピン人の中には、市内各所に身を潜めていた日本人を見つけ、報復に走る者もあったようだ。マニラ戦が始まった当時、フィリピン人の友人にかくまわれていたある在留邦人は、別のフィリピン人に捕まり、殴る蹴るの暴行を受けた末(ある女性たちは木製のスリッパで彼の鼻を打った)、胸に切り込みをつけられ、赤と青のインクで刺青を入れられるという痛ましい体験をした。当時のフィリピン人の激昂ぶりには想像を絶するものがあった。


(略) マニラ戦当時、ロムロ(注:マニラ生まれ。フィリピン・ヘラルド紙編集者。1942年ピューリツァー賞受賞者。戦争中マッカーサー将軍の軍事補佐官、1944年米国下院議会に陪席したフィリピン代表の駐米委員に任命)は米軍に随行し、マニラにあった。
解放後のマニラの市街地には胸の悪くなるような死臭が漂っていた。各地をジープで回った彼は、自分がまるで死んだ都市にたたずむ亡霊となったような錯覚に陥る。道端に折り重なる死体を目にし、無惨に変わり果てた友人の姿を見て、彼は精神的にどん底まで突き落とされていた。


翌年に出版した著書の中で、彼は次のように書いている。
「私が見た、マニラ市街に積み上げられた拷問の跡も生々しい遺体は、かっての私の隣人であり、知人のものであった。彼らの頭部はそぎ落とされ、両手は後ろ手に縛られて、何度も刺突かれていた。
言葉なく私を見、銃剣で乳房をめった切りにされたこの女の子は、私の息子と同じ学校に通っていた子だ」。

ロムロは神父や女性、赤子までが死体となった惨状を目のあたりにした。
わけても、友人のエルピディオ・キリノ上院議員の自宅前をジープで通りかかった時に目にした、キリノ夫人と子供たちの無惨な姿は、彼に大きなショックを与えた。
その光景をロムロは次のように記す。キリノ邸は「虐殺現場」と化し、キリノの家族の死体は「奇妙な格好のまま、埋葬されることなく散らかっていた」。多くの悲惨な場面を目撃したロムロは、マニラの惨状を米国社会に伝えねばとの使命感に突き動かされていた。

 

●「米国議会での証言」より(一部)
(略) 3月22日にロムロは下院議会の外交委員会の聴聞会で証言した。ジャーナリスト出身らしい、現場主義に基づいた現地報告である。

・・・ 私は、ちょうどマニラから戻ってきたばかりです。戦闘中ずっとマニラにいました。私は、日本軍によって残虐行為が行われたのを見たのであります。
マッカーサー将軍は、マニラのマラカニアン宮殿でセルヒオ・オスメーニャ大統領に民政移管を行うスピーチの中で、「この都市は残酷な仕打ちを受けた」と述べてうなだれました。将軍は言葉に詰まり、話を続けることができなくなったのです。私はこの時、将軍に仕えてから初めて、彼の頬から涙が伝っていくのを見ました。将軍が涙を流したのは、彼がその目でマニラの受けたひどい仕打ちの様を見たからであります。
将軍はマニラが破壊され、倒壊し尽くした様子を目の当たりにしました。かって東洋の真珠と謳われた都市は、いまや焦げた骨組み以外、何も残っておりません。

・・・・・彼ら(日本軍)は、自分たちに屈することを拒んだフィリピン人を拷問したサンチャゴ要塞の地下牢に、男たちをおし込めました。
彼らは灯油を放ち、1700人あまりのフィリピン人を焼いたのです。
米軍による奪還から2日後に私はサンチャゴ要塞を訪れました。そこで私は、焼けただれた死体が散乱している様を見たのであります。窓につかまったままで、なお燃え続けている死体も目にしました。逃げ延びたのはわずか3人でした。そのうちの1人は川に飛び込み、背中に傷を負ったまま川を渡っているところを我々が救助し、直ちに病院に運んだのです。
私は、この男性を見たことを記した宣誓供述書を議会で紹介するつもりです。・・・・

 

備考) 米軍がマニラのインストロムにて入手した日本軍作戦命令書「大隊至急命令」(一部):
「比島人を殺すのは極力一ケ所に纏め弾薬と労力を省く如く処分せよ。死体処理「うるさき」を以て焼却予定家屋爆破家屋に集め或は川に突き落すべし」



フィリピン・マニラ サンチャゴ要塞
 

 

●「ハポン ドロボー バカヤロー」より(一部)

(略) 鉄道での移送時も似たような状況だった。
軍属の皇(すめらぎ)睦夫は1945年9月15日、北部ルソンのアバダン(バギオの北部)で米軍に投降、貨物列車でマニラ南方のカンルーバン捕虜収容所へと移送された。
貨車は無蓋のうえ、「立錐の余地もないほど兵隊、軍属や邦人で超満員」だった。(略)皇は老若男女のフィリピン人の群衆が列車を取り囲んで、日本人に怒声を浴びせる姿を「身を縮めて」見つめた。彼はフィリピン人の怒りがエスカレートする様を次のように書き留めている。

・・・ 群衆から石やビールビンや木片など雑多な物が貨車をめがけて投げつけられてきた。
私は毛布を頭に乗せて貨車の中にうずくまった。ポーッポーッ・・・・、と機関車は何回も大きく汽笛を鳴らした。
だが、列車は動かなかった。群衆が列車の前に立ちはだかって通せんぼをしているらしい。

「バカヤロウ!」「ドロボウ!」などの群衆の叫ぶ雑言、罵倒はますます激しくなってきた。
線路近くの高い木に登った子供らが面白そうに笑いながら、「バカヤロウ!」を連発しては私たちの頭上めがけて煉瓦やビンなどを投げ落とした。貨車の両側から、或いは上から投げつけてくる雑多な物がガン!ガン!と列車にはね返った。私は毛布を身体の上に乗せ、貨車の床板に頭をすりつけた。・・・

 

ややあって突如、貨車の前方で猛烈な機関銃の発射音が鳴り響く。護衛の米兵が群衆に向けて威嚇射撃をしたのだ。驚いたフィリピン人たちは、いったん四散するが、それだけでは引き下がらない。皇は続けて次のように記す。(略)

●「在留民間邦人も直面した怒り」より(一部)

木原次太郎マニラ総領事代理が引率するマニラ周辺の在留邦人の集団の末路はその一例であった。
この集団には、多くの老人や女性、子供が含まれていた。
彼らはキヤンガン周辺を彷徨し、敵軍からの攻撃や食糧難、強行軍などによって次々と落命した。
マニラからの第一次引揚邦人の談話記録(1945年11月)には、次のようにある。


・・・ 露営地に於いても僅かな芋畑を競って同胞相争ひ、体力気力の弱い者は落伍して其儘路傍に斃れ、食を失った母親の中には処置に窮して殊更に我子を餓死せしめ、又は遺棄する者あり。母を求めて泣く子の声は、死児を谷間に投じ、河に流す母親の姿と共に一行の胸を抉るものがあった。・・・

フィリピン人は日本人と見るや、激しい怒りをぶつけた。
先の在留邦人の一行は9月中に北部ルソンのキヤンガンからソラノ、サンホセなどを経由してマニラの収容所に向かったが、同談話記録によれば「フィリピン」民衆は一行を罵倒し、且、石を投げ、痰を吐きかけ、甚だしきに至っては陸橋上から尿を浴びせる者すらあった」という。
この一行にいた新美彰は乳飲み子と二人、逃避行する中、その子を亡くす。傷心を抱える彼女にも、フィリピン人は「バカヤロウ」「インバイ」などと、容赦ない罵声を浴びせかけた。


もっとも、フィリピン全体が怒り一色だったわけではない。例外もあった。
南方第12陸軍病院の看護婦・門脇初代の体験はその一例である。
彼女は北部ルソンのアシン渓谷からバギオ、マニラを経由してカランバ(マニラの南方)の収容所に入るのだが、1945年9月19日の日記に次のような体験を記している。
移送途中で多くのフィリピン人が「馬鹿野郎、泥ボウとどなって、石等」を投げつけてきたが、移送担当のフィリピン人運転手は途中で自分の家に立ち寄り、門脇ら12人の日本人看護婦に食事をふるまった、というのである。
日記にはこうある。「お魚とトースト、紅茶を呼ばれ、ほんとに涙の出るほど嬉しかった」。怒りの嵐の中にあっても、日本人に善意を施すフィリピン人はいた。

 

●「八紘一宇」は、鬼畜の住民虐殺であった
大日本帝国が実際やらかした事と対比してみて、そして、一つの屋根の下に共に栄えるという観念が、実際は、どこにも無かったという事である。
在住の民間日本人もまた、悲劇のどん底に突き落とされたのだ・・・・と。

71年後の今年1月下旬、明仁天皇と美智子妃殿下は、フィリピンご訪問を実行された。

フィリピンでの晩餐会での明仁天皇のお言葉や残留日系人との面会等を受けて、当ブログでも、話題をあげたことがあった。
その一節に、次のお言葉が含まれていました。

・・・・ 昨年私どもは、先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます。
 

 

1937年(昭和12年)11月文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」からたったの8カ年後、1940年(昭和15年)「基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)」からたったの5カ年後でこのような有り様でした。この状況は、基本国策要綱の大屋根「八紘一宇」なるものに真逆ではありませんか。

 

現代の世界の紛争に対して、米国は「正義」「自由」を振りかざし、結局は、赤ん坊や母親、一般住民虐殺は付随する必要悪だといわんばかりです。
言葉が通じない他国・他民族を侵略し占領する戦争を始めてしまえば、アッという間に、一般住民が大量殺害されるのは、現代の中東地域も全くそのとおりです。そして、中東地域派兵帰還米兵は自殺したり、自分が犯した罪におののいています。
米国・欧州諸国が「正義」の名の下で攻めていったとしても・・・だと思います。
上記の永井さん記述で分かるように、現地の住民は、憎しみを抱き、報復を誓うということもです。

 

こうしたフィリピン・マニラで生じていた歴史的事実を、今一度振り返る必要があるんではないでしょうか。
そして、現代日本国「安全保障」、「外交」政策の基盤部に、日本国憲法前文にある「生存権」を据え、湧き上がる諸国紛争に臨むべきではないだろうか、そしてそれを冷静になしうる政権を日本国内で樹立すべきではないかと思います。

 

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