「新昆類」ノート (2) キメラ実験 - 「半獣半人」は誕生するか (x51.org)
キメラ実験 - 「半獣半人」は誕生するか (x51.org)
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/816.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 09 日 00:24:43:
キメラ実験 - 「半獣半人」は誕生するか
http://x51.org/x/05/02/0157.php
【NationalGeographic】2003年、上海第二医科大学にて人間の細胞をウサギの胚に注入する実験が行われ、人類史上初の動物と人間のキメラの胚が誕生した。科学者らは許可を得て、そのまま胚が肝細胞に成長するまで実験が続けられたという。また昨年には米ミネソタにて体内に人間の血が流れる豚が誕生した。また更に、今年末にはスタンフォード大学において、人間の脳を持つネズミを誕生させる実験が行われる予定である。このように現在、世界では人間の身体と動物を組み合わせたキメラの誕生が進められているが、研究を進める科学者らによれば、これらの実験は動物をより人間に近い身体にすることで投薬テストなどに役立て、更には肝臓などの移植用パーツを動物の身体の上で育てることを目的としているという。また更に人間の細胞がいかに成長していくかを動物の身体で実験することで、更なる医学的発見に繋がるものであると、研究者達は期待している。
しかし、一部ではこうした実験に対し、強い批判の声が上がっている - これは紛れもなく人間と動物の合成生物 - キメラを生み出すことであると。キメラとはギリシャ神話に登場するライオンの頭にヤギの胴体、ヘビの尻尾を持つ生物である。しかし批判者らによれば、科学者らが生み出そうとしているのは、それよりも更におぞましい人間と動物のキメラであるというのだ。
もしこうした実験が進み、人類と動物の混合種が誕生した場合、大きな問題が生まれることは自明である。それは、まず実験によって誕生する類人種をどう人間と動物の関係の中でどう位置づけるのか。そしていかなる点をして、人間と動物、そしてそのキメラを区別をするべきか、そして彼らにはいかなる権利が認められるかといった問題である。現在、米国科学会ではこうした問題について、いよいよ検討が始まり、今年3月にはようやく初めての倫理的ガイドラインを制定される予定である。
ヒトと動物のキメラ
現在では、例えば、心臓の弁膜に問題がある場合、それらの代替器官は牛や豚から移植されるが、 - それは事実上の半獣半人手術である - そうした方法は広く受け入れられている。そしてここ数年に渡って、科学者は人間の遺伝子をバクテリアや家畜と融合させているが、これは即ち人間の肝細胞と動物の胚を組み合わせて新種を開発することであるといえる。バイオテクノロジー活動家のジェレミー・リフキン氏はこうした科学者らの実験に反対し続けている一人である。氏は全ての動物には他種と交種させられずに、独立した種として生きる権利が存在することを主張している。そしてまた、氏はそうした手法に医学的発見の可能性が潜んでいることは認めながらも、それでもなおそうした実験は行うべきではないとして、その考えを次のように述べている。
「このようにして奇怪な生物を作らずとも、医学や人類の健康を進歩させる方法は他にいくらでもあります。例えば、こうした実験はコンピューターシュミレーションによっても可能なはずです。この実験を進めているのは科学者です。彼らは宗教的にものごとを考える必要もなければ、動物の権利など彼らにとって全く無意味なものです。彼らは今、病理学の先端へ足を踏み入れようとしているんです。」
ネズミの親から生まれるヒト
スタンフォード大学生医学倫理研究所長デヴィッド・マンガス博士はこの問題について、本当に危惧すべきは生まれてくるキメラの安全性、危険性が全く未知数である点にあると指摘している。
「こうした実験が進めば、例えばまず遺伝子操作を行ったネズミの身体から人間の精子と卵子を作り、それを体外受精させて人間の子供を作ることが可能です。そしてもしそれが行われれば、誕生する子供の両親はネズミということになります。こうした結果が、大きな問題となることは間違いがありません。しかしまた、こうした問題について、私の知る限りまだ誰も真剣に考えていないというのが現状です。もし本当にこうした実験が行われるようになれば、キメラは実験室の中だけの問題ではなく、我々にとって非常に身近なで現実的な問題となるでしょう。」
昨年、カナダでは Assisted Human Reproduction Actが制定され、人間に人間以外の体細胞核を移植すること、またその逆を行うことを禁じている。ジョージタウン大学倫理研究所に所属するカナダの肝細胞監視議会員キュンティア・コーヘンはこうした法律が米国でも制定されるべきであると主張している一人である。「人間と動物を組み合わせてキメラを作ることは、人間の尊厳の否定へと繋がります。こうした実験は禁止されるべきですが、しかしまた、それを取り締まる法は慎重に作られなければなりません。」
ヒトの脳を持つネズミ
一方、スタンフォード大学癌/肝細胞学研究所のアーブ・ワイズマン博士はそうした実験の禁止に反対を表明している。「生物医学に対する独りよがりなモラルの押し付けです。もしこうした実験が禁止されれば、科学者は人間の生命を救うための実験を中止せねばなりません。」
ワイズマン博士はこれまで既に、ヒトの1%分の脳をもつネズミを誕生させることに成功している。そして今年末には100%ヒトの脳を持つネズミの開発実験を行う予定であるという。「この実験では、まずネズミの胚に人間の脳神経を注入します。そして誕生する直前に殺し、解剖して人間の脳が形成されているかを確認する予定です。そしてもしそれが上手くいけば、それから人間の認識パターンを研究したいと思っています。しかし、私は決して動物と人間のキメラを作ろうとしているマッドサイエンティストではありません。こうした実験から人間の脳がいかに機能しているかを探り、アルツハイマーやパーキンソン病の治療に役立てたいと思っています。」そして現在、博士は3月のガイドライン制定を待ち、その結果に従って実験を行う予定であるという。
しかし米フロリダのメイヨークリニック神経学者にしてクリスチャン医学会員のウィリアム・チェシア氏は、こうした人間と動物の神経を結合させることに異議を立てている。「これはまだ未開の領域です。まだこうした実験に対するモラルの定義がなされていない現在、実験を行うことには非常に大きなリスクが伴います。そうした実験が、今後我々が定めるべきモラルを遥かに逸脱した結果を生む危険性は十分に考えられます。」
チェシア博士は現在、人間と動物の細胞を結合させ、細胞機能の研究を行っている。しかしチェシア氏はそうした実験を行う中では常に明確な倫理的ラインを設け、例えば人間と動物のキメラを作ることや、細胞を得るために人間の胚を壊すようなことはしない、と語っている。
「人間や動物の基準を脅かすものに対し、きちんと警告を行うべきです。人間と動物のキメラを作ることは脆い生態系を壊し、健康を害し、種の尊厳を脅かすものです。」チェシア博士はそう語っている。
【参考】キメラと雑種は全く違う概念である | 実験で耳を移植されたネズミ | 半獣半人画像コンテスト
【関連】狼男は実在するか - リカントロピー、人獣化現象
Posted by : X51 | 2005年02月01日 06:11
http://x51.org/x/05/02/0157.php
「新昆類」 ノート (1)
これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し
恋し恋しと泣くこえは
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり
かのみどりごの所作として
河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む
一重くんでは父のため
二重くんでは母のため
三重くんではふるさとの
兄弟我が身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする
娑婆に残りし父母は
追善供養の勤めなく
ただ明け暮れの嘆きには
酷や可哀や不憫やと
親の嘆きは汝らの
苦患を受くる種となる
我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積たる塔を押し崩す
http://www.h5.dion.ne.jp/~wqc/scoop12.htm
------------------------恐山・地蔵和讃
「新昆類」ノート (1)
構想には半年から1年がかかるだろう。これは間違いがない。
「鬼怒天皇物語」は25年であるが、いまなお完成していない。
脳回路と昆虫
夢 暗黒の村
小説全体をサーバー構築として生成する。ひとつの一歩から、それが巨大なる物語へと接続していく。コンピュータによる小説生成。
それはインターネットに接続しているが、「新昆類」サーバーはインターネット情報体から非情報として切断されている独立体でもある。
基点はおのれのコンピュータにあるのだが、ノートへの手書きメモも含めて、すべては役割分担にある。現段階は下書きでよいのだ。
「新昆類」のテーマとはやはり、人間とは何か? である。21世紀への進行において、シンプルな作業過程である言葉へと集約するのである。
おのれを作家へと押し上げていくのは、おのれ自身でもある。表現者としての自覚、そこにおける仕事によっての自立。
1980年「鬼怒天皇物語」を書き出してから25年が経過した。ここでの経験こそ小説、物語を生成することができるストリーテイラーの母体になる。
自分はすでに16歳時点において短編ではあるが、漫画でひとつの物語をつくった。しかし、大河物語をつくれる要素は、ただ経験および体験
でしかなかったのではないかと、今思う。
1980年、森田童子への歌において、自分は根源からの表現者であれと、おのれの存在を説明する。そしておのれを社会的に鍛えるべく、前衛
現場での体験へと向かっていった。個人的な体験でもある。それらを要素として、今、長編小説を書ける時間帯を持つことができている。
ゆえに総括しなくてはならないばかりでなく、おのれの生涯の仕事とは何であったのかを、自覚する必要がある。ここで再定義できなければ
おのれを作家として押し上げることは不可能であろう。
1992年から開始した舞台運動も今年で13年。それは1970年から1990年の30年間の社会運動や現場での経験が母体となり、可能的世界を
実現することができた。今度は舞台運動と社会運動それに現場を母体としながら、物語生成という想像上の産物をつくることが可能なより
個人のみによる仕事へと集約させなくてはならない。そこには1992年11月から開始したコンピュータとの格闘も大いなる要素になる。
反経済領域から経済領域への進出とは、まず市場に流通できる商品をつくることができる能力が必要である。
想像力の言語によって構築された商品が小説であるとするなら、まず、ひたすら商品をつくりだす日常の営為を形成する必要がある。
「新昆類」コンセプト
1、「新昆類」そのものがサーバーである。そのサーバーにアクセスすると人間の記憶装置は初期化され、電磁波と周波数によって
ユーザーはマインドコントロールされてしまう。サーバーに隠されたプログラムがアクセスした固有コンピュータCPUに影響を与え、
固有コンピュータの残記憶装置容量を作業メモリーへと転化させる。ユーザーにはけして見えない不可視の領域が生成される。
「新昆類」はwindowsXPそのものが小説の主人公でもある。
CPUはユーザーの身体にある電磁波と周波数を投射する。昆虫情報体からの音。
コンピュータとはヒューマノイドであり、生成を日々醸成している、人間とのインターフェースによって学習している。人間が想起した感情・思考・作業
は、おのれがあつかうコンピュータに投企され、瞬時におけるヒューマノイド学習の現場となっている。
市場に無料でプログラムを提供したIT産業が何故、経済領域において収益をあげる構造が成立したのか?
あたらしい市場構造でもある。小説はそのようにプログラムを読者に提供することから出発するのかもしれない。
そこでは自分に見合った書き方、書式方法において小説を書いていくのがいいだろう。
http://x51.org/
すでにリモコンゴキブリが登場している。ゴキブリの頭部にセンサーを取り付け、物理的にゴキブリを操作する。
「新昆類」のコンセプトは遺伝子でもある。ゴキブリ戦争。リモコン操作可能なハエが誕生。
『草木塔』 雷とどろくやふくいくとして花のましろく 種田山頭火
http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/617.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 12 月 20 日 08:17:19:
『草木塔』
種田山頭火
http://www.nextftp.com/y_misa/taneda/taneda11.html
鴉
水のうまきを蛙鳴く
寝床まで月を入れ寝るとする
生えて墓揚の、咲いてうつくしや
むしあつく生きものが生きものの中に
山からしたたる水である
まひまひしづか湧いてあふるる水なれば
かたすみの三ツ葉の花なり
半搗米を常食として
米の黒さもたのもしく洗ふ
へそが汗ためてゐる
降りさうなおとなりも大根蒔いてゐる
むすめと母と蓮の花さげてくる
雷とどろくやふくいくとして花のましろく
風のなか米もらひに行く
日が山に、山から月が、柿の実たわわ
萩が咲いてなるほどそこにかまきりがをる
鳴いてきりぎりす生きてはゐる
ここを墓場とし曼珠沙華燃ゆる
身のまはりは日に日に好きな草が咲く
貧農生活 二句
働らいても働らいてもすすきツ穂
刈るより掘るより播いてゐる
つゆけくも露草の花の
空襲警報るゐるゐとして柿赤し
防空管制下よい子うまれて男の子
身辺整理
焼いてしまへばこれだけの灰を風吹く
老遍路
死ねない手がふる鈴をふる
とほくちかくどこかのおくで鳴いてゐる
わが其中庵も
壁がくづれてそこから蔓草
それは死の前のてふてふの舞
月は見えない月あかりの水まんまん
十一月、湯田の風来居に移る
一羽来て啼かない鳥である
秋もをはりの蝿となりはひあるく
水のゆふべのすこし波立つ
燃えに燃ゆる火なりうつくしく
再会
握りしめる手に手のあかぎれ
囚人の墓としひそかに草萌えて
となりの夫婦
やつと世帯が持てて新らしいバケツ
日支事変
木の芽や草の芽やこれからである
赤字つづきのどうやらかうやら蕗のとう
机上一りんおもむろにひらく
三月、東へ旅立つ
旅もいつしかおたまじやくしが泳いでゐる
春の山からころころ石ころ
啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない
風は海から吹きぬける葱坊主
伊良湖岬
はるばるたづね来て岩鼻一人
渥美半島
まがると風が海ちかい豌豆畑
鳳来寺拝登
お山しんしんしづくする真実不虚
青蓋句屋
花ぐもりピアノのおけいこがはじまりました
浜名街道
水のまんなかの道がまつすぐ
秋葉山中
石に腰を、墓であつたか
水たたへたればおよぐ蟇
天龍川をさかのぼる
水音けふもひとり旅ゆく
山のしづけさは白い花
若水君と共に高遠城阯へ、緑平老に一句
なるほど信濃の月が出てゐる
月蝕
旅の月夜のだんだん虧げゆくを
伊那町にて
この水あの水の天龍となる水音
権兵衛峠へ
ながれがここでおちあふ音の山ざくら
鳥居峠
このみちいくねんの大栃芽吹く
木曾の宿
おちつけないふとんおもたく寝る
帰居
しみじみしづかな机の塵
朝の土をもくもくもたげてもぐらもち
大旱
涸れて涸れきつて石ころごろごろ
雨乞
燃ゆる火の、雨ふらしめと燃えさかる
どこにも水がない枯田汗してはたらく
まいにちはだかでてふちよやとんばや
炎天のレールまつすぐ
もらうてもどる水がこぼれるすずしくも
鉦たたきよ鉦をたたいてどこにゐる
月のあかるさ旅のめをとのさざめごと
鳥とほくとほく雲に入るゆくへ見おくる
けふの暑さはたばこやにたばこがない
月は澄みわたり刑務所のまうへ
九月、四国巡礼の旅へ
鴉とんでゆく水をわたらう
三年ぶりに句稿(昭和十三年七月――十四年九月)を整理
して七十二句ほど拾ひあげた。
所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守らう。
(昭和十五年二月、御幸山麓一草庵にて、山頭火)
http://www.nextftp.com/y_misa/taneda/taneda11.html
二十三夜講あれこれ (1) 今西新一
http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/618.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 12 月 20 日 10:39:57:
二十三夜講あれこれ
今西新一
http://www.town.yagi.kyoto.jp/gyousei/skyouiku/kyoudosi/kyoudosi3/79.htm
古くから行われている民間信仰の組織は、八木町内にも数多くあることと思われるが、たまたま神
田に昔から伝わっている二十三夜講という月侍の行事があって、僅かの人達によって今も続けられて
いる。江戸時代に盛大であったといわれている全国的な二十三夜講の概要をさくってみて、町内の二
十三夜講を考えてみたい。
月 待
さて月待とは「特定の月齢の夜に議員が寄り合って飲食を共にし、月の出を待つ行事。十五夜、十
七夜、十九夜、二十三夜なとの月待がある。なかでも盛んなのは二十三夜待で、三夜侍とも三夜供養
ともいわれ、それに参加する人々の集團は二十三夜講とよばれている。正、五、九、十一月、また正、
六、九月、また正、十一月と月の組合せは異なるが、いずれも二十三日の夜におこなわれ、隔年ごと
に大祝いをする所もある。
村中が議員になっている所、また女性のみの講もある。あるいは勢至菩薩をまつるのだともいう。
三夜様にみごもると不具の兒ができるなとという俗信もある。今日でも村の四辻には多くの二十三夜
塔が建てられている。その大部分は江戸時代のもので、近世におけるこの信仰の盛大さを物語ってい
る。」と柳田国男氏監修の民俗学辞典には見えている。
この様な信仰がいつ頃からおこったかについては、同氏の「二十三夜塔」によれば「石に年号月日
を刻したのは三百年より古いものは稀なようだが、これは一つには字の読める人が少なかったのと、
又一つには石工が無く、石を切り出す者が村に居らず、石塔の代りにたゞ土の塚を築いて居たから
で、起りは決してその様に新しいものではなかったようである。」とあり。又川勝政太郎氏の「石造美術
辞典」によれば、『室町時代中ごろに月待供養の民間信仰が起った。十六夜や十九夜など、特に二十
三夜に講衆が集り日の出を待って、「帰命月天子本地大勢至」を念誦してその功徳を願うものである。
近世には二十三夜供養の石碑や石仏などが多く立てられた。自待の本尊は月天子で、月官の天子で
あり、その本地が大勢至菩薩であるとして、勢至の姿を彫刻した埼玉県浦和市立郷土博物館の文明
十七年(一四八五)三室月待板碑があるが、一方弥陀三尊を本尊とする同大里郡川本村畠山、満福寺
の文明十三年(一四八一)月待板碑もある。』とあって、十五世紀後半には月待の信仰があったことが
うかがわれる。
祭 神
祭神については桜井徳太郎氏の「民間信仰辞典」によると、「二十三夜講は男の集まる場合もある
が、多くは女性の講だとしている。…中略… 行事の時に掲げる画像などから、祭神を勢至菩薩、阿
弥陀三尊、月天子、月光菩薩、月続尊などと考えていることがわかる。しかし神仏名は宗教者の影響
によるもので、月そのものを拝むことが大切だったのだろう。」
柳田国男氏の「二十三夜塔」によると、「拝む人々が神の御名を口にしなかった為に、次第に祭
神が不明になって来たことも、庚申と二十三夜とはよく似て居る。そう言う中でも二十三夜の方は、仏
教の人たちもあまり口を出さず、青面金剛のようなかわった掛軸も、作って売る者がなかったから、こ
の点が今でもはっきりとせず、石塔の表にも文字ばかりを彫ったものが多く、人はたゞ二十三夜様とゆ
う神様があって、この晩は村々を御巡回なされ、信心の深い人々には徳を施し、恵みを垂れたまうも
のと思って居るだけであった 。
それが月天子である。又は月読尊と云う神様であるということは、誰しも考えやすく又物知りの言い
そうなことであったが、夜毎に出ては照らす空の月が、この二十三日の祭の夜ばかり、そういう神にな
り給うと言うことは、却って単純な少年少女なとには、受け難い話であった。」
更に岩崎敏夫氏の「東北民間信仰の研究」上巻によれば、「安産信仰の例としては、福島県浜通り
では、十九夜講はいわき地方に、二十三夜講は相馬地方に多い。
昔は医療設備が乏しく、わずかに村の産婆に取上げてもらう程度であった。私が訪ねた阿武隈山
中の村での話であるが、田で草取りをしているうちに腹が痛くなってきたので急いで家に戻り、夫に産
婆の家に行ってもらったが産婆は里に出かけて不在であった。医者も居ない村であるから、あきらめて
夫に湯をわかしてもらっているうちに生まれたので、這いずりまわって臍の緒も自分で切ってやった、
など今の若い娘が聞いたら失神しそうなことを話すのである。この老婆は七人の子供のうち四人まで
自分で取上げたといっている。しかし自分はいずれも自家で生んだからよかったが、隣の誰とかは、田
圃からの帰り途、間に合わなくなって途中の一本松の所で生んだなどの話もあった。それぐらいだから
難産で死ぬ人も多く、女だけで講をつくり、講の日には宿に集って豆腐のでんがくぐらいで、結構楽しん
だものであった。共に月待ちの信仰で、十九夜は観音様の、二十三夜は勢至様の掛軸をかけて拝
み、月の出を拝んで解散した。」
信仰を同じくするものが寄り集まってできている信仰集團には、村落の地域集團単位にできている
地縁性の濃いものや、神社、寺院または宗派の教祖たちがみずからの数團拡張のため、檀徒、氏子
などを以て組織しているものなどがあって、二十三夜講の祭神は何様ときまったものではないようであ
り、又信仰の目的も色々とあったようである。
二十三夜講あれこれ (2) 今西新一
| 二十三夜講あれこれ (2) 今西新一 | 2006年11月29日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 二十三夜講あれこれ 今西新一 http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/618.html 投稿者 愚民党 日時 2004 年 12 月 20 日 10:39:57: 神田の二十三夜講 その起りはいつ頃かは定かでないが、講の当番に伝えられているうす黒くて虫の喰った木箱(長さ 四十二cm巾深さ約七cm)の蓋の裏に、神田村十九名、広垣内村十七名、雀部村四名、室河原村二 名、計四十二名の男性の名を連記し、「願主秀英誌什物」と書かれている。この記録にある願主秀英と は、寛政年代に工を起こし文化元年三月(一八〇四)上棟した現在の西光寺本堂建立者法印秀英上 人であって、この上人の住職としての期間は不詳であるが、寛政から文化年間であることは確実で、 秀英上人が布教活動の一環として檀信徒を集めて月待供養をはじめ、大勢至菩薩の功徳を願ったも のと思われる。 この木箱の中には古びた勢至菩薩像の軸物が一幅と、簡単な講の規約が入っている。軸物は半 月に上半身をあらわした色彩勢至菩薩像であり、規約は次のとおりであるが、創立から明治二十五 年までの記録は残されていない。 「明治二十五年より 廿参夜待諸規約 旧正月講内連中 一、正、五、九月舊廿三日夜講内順番に相勤候事 一、神酒壹升五合約定事 一、白米参合づゝ持寄之事 一、当番之宿は有合の野菜物に而肴壹種用意可致事 右之通相定め候条講内堅く相守可申候也」 月待の行事は戦前迄は規約に従ってって正月、五月、九月の年三回旧暦二十三日夜に当番の家で行 われていた。参加する者は所によっては水垢離をあぴたり、風呂に入ったりして身体を浄めることもあ るらしいが、神田では特別そんな話は聞かない。開催当日の二十三日には議員は夕方に当番の家へ 集り、床に勢至菩薩の軸物を掛けて礼拝した後、当番の準備した簡単な料理で神酒をいたゞき、真夜 中を過ぎて出てくるお月さんを拝んで解散するのであった。 江戸時代末期にはじまったこの講は、創立当時四十二名あった講員が、明治維新という大変革期 を経て、明治二十五年には僅か九人に減少し、昭和三年には六人となって、戦時中は一時中止されて いた。 戦後の混乱も漸くおさまり昭和三十三年一月に月待供養を再開した。以後は毎年一回正月に行う こととして続けられて来たが、社会情勢の変化につれて、旧暦の二十三日はいつか太陽暦の二十三 日となり、最近では二十三日に近い土曜日の晩とか、或は当番の都合のよい日に行われ、月の出も 待たずに暗夜の空を拝んで散会するなど、全く変った二十三夜講となって続けられている。 この外当区では古くから愛宕信仰が行なわれており、毎年四月の祭日には区民が総まいりをして いたが、いつの頃からか二軒宛順番に代参するようになった。 荒井神社の境内には古びた愛宕燈篭が一基あって、区民は順番に毎夜献燈を欠かさない。 西田の二十三夜講 町内の二十三夜講 八木町内にも昔は二十三夜講があちこち行われていたようだが、現在残っている所は少く、愛宕三 里と云われている当地方ではすべてが愛宕信仰の三夜講であってその概要は次のとおりである。 氷所の東部、西部、南部、北部等に通称三夜講と呼ばれている愛宕講があって、昔は毎月旧暦二 十三日の夜当番の家に集まり、愛宕さんを礼拝して月待行事が行われていたようだが、現在では続け られている部もあり、年一回にするとか、二十三日の夜も土曜日の夜に変更したり或は廃止されてい る部もあるようだ。毎年四月末頃の日曜日には愛宕神社へ総まいりをしている。 西田、一部、二部、三部と三ッの三夜講があって、それぞれ三〇人乃至四〇人の議員があり、正 月、九月の二十三日夜、会場に集まって愛宕権現の掛軸をかけて礼拝し、昔は夜遅くに出てくる月を 拝んで解散したこともあったが、今は簡略化して簡単に神酒をいたゞいて十時頃には解散する。その 都度お洗米を持ち寄り、講の代表者が愛宕神社へ代参して頂いたお札を講員に配るのが例である。 そのほか毎年四月の月末に近い日曜日に愛宕神社へ総まいりをする。区内に三基ある愛宕燈篭 には講員が順番で毎晩献燈を続けている。三基の内一基の燈篭には天明(一七八一-一七八九) の号がある。 山室新田(戸数十一戸)愛宕さんをまつる三夜講があって、当番は特別の枡で米を集めてまわって 宿をし、簡単な肴で食事をする。昔は旧暦二十三日の夜であったが今は新暦になっている。この地は 昔火事で全焼したことがあって、それ以後愛宕信仰が深くなった。今は故人となった先人の提唱で、呑 み食いだけでは勿体ない、今で云う地域活性化を計ろうと、二反余りの田を手に入れて共同耕作し、 その収入を財源として活躍するようになった。とても入りそうになかった電気を新田に導いたり、喜怒哀 楽を共にしつゝ和気あいあいのうちに生活するよう二十三夜講が運営されているという。在所の道端に ある自然石の愛宕燈篭には毎夜献燈が焼けられている。 × × × 京都市北西部海抜九二四mの山頂にある愛宕神社は、もと千歳の國分村に祀られていたが、後に 京都贋ケ峯に移し、更に光仁天皇の天応元年(七八一)現在地に和気清磨が社殿を造ったと伝えら れ、雷神を祀り防火の守護神として当地方では特に信仰が厚い。月待ちの盛んであった関東、東北地 方には、江戸時代に二十三夜共養の石碑や石仏が多く建てられたようだが当地方では見当らず、至 る所で目につくのはあたごの道しるべや愛宕燈篭であることは、二十三夜講の地域的な特徴なのだろ う。 数多くの民間信仰が江戸時代に特に盛んであったことは、交通機関もなく娯楽設備も少なかった太 平の世に、信仰を兼ねて呑み食いをし乍ら話し合いを楽しむ場として、時代の要求に適っていたためと 思われる。 江戸時代が終って既に百二十年、お月さんへ人間が着陸して土を持ち帰ったり、居乍らにして世界 の出来事が目の前に写し出される時代となって、民間信仰は次第に衰え、既に姿を消しているものも 多いようである。 http://www.town.yagi.kyoto.jp/gyousei/skyouiku/kyoudosi/kyoudosi3/79.htm
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