二十三夜講あれこれ (2) 今西新一
| 二十三夜講あれこれ (2) 今西新一 | 2006年11月29日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 二十三夜講あれこれ 今西新一 http://www.asyura2.com/0403/ishihara8/msg/618.html 投稿者 愚民党 日時 2004 年 12 月 20 日 10:39:57: 神田の二十三夜講 その起りはいつ頃かは定かでないが、講の当番に伝えられているうす黒くて虫の喰った木箱(長さ 四十二cm巾深さ約七cm)の蓋の裏に、神田村十九名、広垣内村十七名、雀部村四名、室河原村二 名、計四十二名の男性の名を連記し、「願主秀英誌什物」と書かれている。この記録にある願主秀英と は、寛政年代に工を起こし文化元年三月(一八〇四)上棟した現在の西光寺本堂建立者法印秀英上 人であって、この上人の住職としての期間は不詳であるが、寛政から文化年間であることは確実で、 秀英上人が布教活動の一環として檀信徒を集めて月待供養をはじめ、大勢至菩薩の功徳を願ったも のと思われる。 この木箱の中には古びた勢至菩薩像の軸物が一幅と、簡単な講の規約が入っている。軸物は半 月に上半身をあらわした色彩勢至菩薩像であり、規約は次のとおりであるが、創立から明治二十五 年までの記録は残されていない。 「明治二十五年より 廿参夜待諸規約 旧正月講内連中 一、正、五、九月舊廿三日夜講内順番に相勤候事 一、神酒壹升五合約定事 一、白米参合づゝ持寄之事 一、当番之宿は有合の野菜物に而肴壹種用意可致事 右之通相定め候条講内堅く相守可申候也」 月待の行事は戦前迄は規約に従ってって正月、五月、九月の年三回旧暦二十三日夜に当番の家で行 われていた。参加する者は所によっては水垢離をあぴたり、風呂に入ったりして身体を浄めることもあ るらしいが、神田では特別そんな話は聞かない。開催当日の二十三日には議員は夕方に当番の家へ 集り、床に勢至菩薩の軸物を掛けて礼拝した後、当番の準備した簡単な料理で神酒をいたゞき、真夜 中を過ぎて出てくるお月さんを拝んで解散するのであった。 江戸時代末期にはじまったこの講は、創立当時四十二名あった講員が、明治維新という大変革期 を経て、明治二十五年には僅か九人に減少し、昭和三年には六人となって、戦時中は一時中止されて いた。 戦後の混乱も漸くおさまり昭和三十三年一月に月待供養を再開した。以後は毎年一回正月に行う こととして続けられて来たが、社会情勢の変化につれて、旧暦の二十三日はいつか太陽暦の二十三 日となり、最近では二十三日に近い土曜日の晩とか、或は当番の都合のよい日に行われ、月の出も 待たずに暗夜の空を拝んで散会するなど、全く変った二十三夜講となって続けられている。 この外当区では古くから愛宕信仰が行なわれており、毎年四月の祭日には区民が総まいりをして いたが、いつの頃からか二軒宛順番に代参するようになった。 荒井神社の境内には古びた愛宕燈篭が一基あって、区民は順番に毎夜献燈を欠かさない。 西田の二十三夜講 町内の二十三夜講 八木町内にも昔は二十三夜講があちこち行われていたようだが、現在残っている所は少く、愛宕三 里と云われている当地方ではすべてが愛宕信仰の三夜講であってその概要は次のとおりである。 氷所の東部、西部、南部、北部等に通称三夜講と呼ばれている愛宕講があって、昔は毎月旧暦二 十三日の夜当番の家に集まり、愛宕さんを礼拝して月待行事が行われていたようだが、現在では続け られている部もあり、年一回にするとか、二十三日の夜も土曜日の夜に変更したり或は廃止されてい る部もあるようだ。毎年四月末頃の日曜日には愛宕神社へ総まいりをしている。 西田、一部、二部、三部と三ッの三夜講があって、それぞれ三〇人乃至四〇人の議員があり、正 月、九月の二十三日夜、会場に集まって愛宕権現の掛軸をかけて礼拝し、昔は夜遅くに出てくる月を 拝んで解散したこともあったが、今は簡略化して簡単に神酒をいたゞいて十時頃には解散する。その 都度お洗米を持ち寄り、講の代表者が愛宕神社へ代参して頂いたお札を講員に配るのが例である。 そのほか毎年四月の月末に近い日曜日に愛宕神社へ総まいりをする。区内に三基ある愛宕燈篭 には講員が順番で毎晩献燈を続けている。三基の内一基の燈篭には天明(一七八一-一七八九) の号がある。 山室新田(戸数十一戸)愛宕さんをまつる三夜講があって、当番は特別の枡で米を集めてまわって 宿をし、簡単な肴で食事をする。昔は旧暦二十三日の夜であったが今は新暦になっている。この地は 昔火事で全焼したことがあって、それ以後愛宕信仰が深くなった。今は故人となった先人の提唱で、呑 み食いだけでは勿体ない、今で云う地域活性化を計ろうと、二反余りの田を手に入れて共同耕作し、 その収入を財源として活躍するようになった。とても入りそうになかった電気を新田に導いたり、喜怒哀 楽を共にしつゝ和気あいあいのうちに生活するよう二十三夜講が運営されているという。在所の道端に ある自然石の愛宕燈篭には毎夜献燈が焼けられている。 × × × 京都市北西部海抜九二四mの山頂にある愛宕神社は、もと千歳の國分村に祀られていたが、後に 京都贋ケ峯に移し、更に光仁天皇の天応元年(七八一)現在地に和気清磨が社殿を造ったと伝えら れ、雷神を祀り防火の守護神として当地方では特に信仰が厚い。月待ちの盛んであった関東、東北地 方には、江戸時代に二十三夜共養の石碑や石仏が多く建てられたようだが当地方では見当らず、至 る所で目につくのはあたごの道しるべや愛宕燈篭であることは、二十三夜講の地域的な特徴なのだろ う。 数多くの民間信仰が江戸時代に特に盛んであったことは、交通機関もなく娯楽設備も少なかった太 平の世に、信仰を兼ねて呑み食いをし乍ら話し合いを楽しむ場として、時代の要求に適っていたためと 思われる。 江戸時代が終って既に百二十年、お月さんへ人間が着陸して土を持ち帰ったり、居乍らにして世界 の出来事が目の前に写し出される時代となって、民間信仰は次第に衰え、既に姿を消しているものも 多いようである。 http://www.town.yagi.kyoto.jp/gyousei/skyouiku/kyoudosi/kyoudosi3/79.htm
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