「母のような看護師になりたくない」だから助産師を目指した私 | 岐阜県郡上の妊婦さんや母乳育児中のママのための鍼灸院

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数千例を超える出産や母乳育児に立ち会ってきた助産師です。病院の検診だけでは安心して出産が迎えられない妊婦さん、通常の母乳指導に満足できない‘子育てにこだわりたい’ママのためのに身体と心にアプローチする針灸院です。

郡上もりのこ鍼灸院
院長の加藤祐里です。

私の母は33歳で兄を
36歳で私を生みました。

当時にしては高齢での出産でしたが
父方の祖母と同居していたことも
あって、兄の時も私の時も
産後2か月で看護師の
職場に復帰しました。

私が物心ついたころは
看護学校の教員として
毎晩、帰りが遅く
休日に家に居るときも
難しい本を開いているか

図書館で母は小さな子どもが
立ち入り禁止の
自習室で仕事をして
兄と私は絵本のある子どものコーナーで
過ごしました。

看護学校の教員は
病棟で交代制で働く看護師に比べ
夜勤はないのですが

生徒のテストや講義の資料つくり、
学生の実習記録に目を通して
定期的な職場の会議に加え
休みの日にはスキルアップのための
勉強会に参加したりと
病棟勤務とはまた違う大変さがあります。
(当時はパソコンもなく
手書きの時代です。
その上、看護学校の規則も厳しかった>_<)

看護師というと
人が困っているときに
かいがいしく世話をしてくれるような
優しいイメージですが

同居の祖母が元気だったころは
看病してくれる人もいたけれど

祖母も病気がちで
ひとりで留守番ができるようになると
母はいつまでも仕事を休んでいるわけに
いかず、具合の悪くて寝ている私の枕元に
病院に受診するお金と
お昼のパンとヨーグルトを
置いて、出勤していました。

自分の母親が看護師さんらしい様子は
あまり感じたことはありませんでした。

小さいころ、母に何度か
聞いたことがあります。
「どうしてお母さんはお仕事で
いつもお家にいないの?」

「帰ってくるのも遅くて
お腹が空いているのに
晩御飯を食べるのが遅いの?」

そのたびに母は
「あなたたちが学校に行ったり
欲しいものを買えるのは
お母さんが働いているおかげ」と
答えていました。

実際、その頃住んでいた家が
とてもボロくて
みるからに貧乏そうだった我が家。

そのことが原因で
小学校の同級生にイジメられたことも
ありました。

すぐに隣の家が‘会社の社長’の家で
お手伝いさんがいつも決まった時間に
大家族の食事を作って食べているのが
窓からみえるので

母の帰りが遅くて
お腹をすかしながら待っている
私にとってはそんな‘お金持ち’の家が
羨ましくてたまりませんでした。

食事も質素で、15時のおやつもなく
(↑これは明治生まれの祖母にあわせた
メニューで、母も料理が苦手だったので
凝ったものが作れなかったからですが…)

私にとってお金がなくて
欲しいものが買えないとか
食べるものがないというのは
幼少期に植え付けられた
コンプレックスです。

ですから将来はどこでも食べて行けるような
仕事につきたいと思っていました。

ですが、仕事優先の母に対して
「看護師だけにはなりたくない。
私が親になったら
もっと子ども優先で
寂しい想いをさせないような
仕事に就きたい」と思っていました。

大学受験のために将来の進路を
考えたときに

医者や薬剤師になるにはお金も
かかかるし、
保母さんや学校の先生は
子どもが苦手だから無理だし
と考えていた頃に

外国でお産をとりあげている
日本の助産師さんについて紹介されている
テレビをみました。

助産師は看護学校を卒業しなければ
なりませんが、
看護師免許だけ持っていても
どこかで雇われないと仕事が
できないけれど

助産師であれば
もっと独立した働き方が
あることを知って
助産師になりたいと思いました。

私が助産師を目指したきっかけは
「母のような子どもに寂しい想いを
させるような親にはなりたくない」という

自分の幼少期のトラウマのような
感情がベースになっているように
思います。