覚書 | ジョバンニ松村のブルースとキャデラックな夜。

ジョバンニ松村のブルースとキャデラックな夜。

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日記です。
ニューオリンズの
一風変わった日常生活を味わってください。


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とあるバンドでバッファローのある家にて仕事があった。
戻って来て、なかなか仕事も意欲も少ないがこの日の仕事は大学生達と訳の判らないギグであった。



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ラテン系の移民の匂いのする独特な家で、ビリヤードなどアンティークな高級品だった。
どうやら政治家のパーティーだったのだが、バンドがジュリヤードに推薦で行くニューオリンズ大学の生徒達でなっていたらしい。しかし、青かった!(どうやら私が日本に行っている間にバンドリーダーとのベテラン勢とのトラブルでこのような顔ぶれになってしまったと其方の方から後で聞く。)

ということであまり冴える話がないが、仕事がある程度入るまでに色々考えた事を書いてみたいと思う。このての話は、やめてくれ!と言う人も多いだろうが、何人か好きな人がいるのでその人達のために書いてみよう。

最近ちょくちょくみる映画や小説で戦争批判の物から、昔の日本を描写する物を観ていて私が右翼左翼でなく、親日反日の物に問わず気になるポイントが一つある。

それは、戦前戦時中の日本人にちゃんとした思想があったか、なかったか、と言う部分が非常に大雑把に描かれている点についてである。むしろ勝手に定義づけられ無茶苦茶に脚色されていると言うのが印象だ。そう言った思想が時代劇にまで及んでいるからたちが悪い。また時代劇に人気が亡くなったのもそのスタイルを未だに続けているからであろう。
まるで明治以降の日本人は頭が悪く情熱まっしぐらなだけの人達だったと言う設定にしなければ、成り立たない設定の映画や小説があまりにも多い。しかし、ここが私はおかしいといつも思う。
理由は単純で、史実と照合させても説明出来ない部分があまりにも多いからだ。
第一否定する人に限って、大和魂とはなんぞや?との問いに答えられない、もしくは不正解な人がどれだけ多い事か?それと同時にどれだけ戦争どころか時代劇の作家がこの言葉を理解しているのか不思議になった。

戦前および戦時中に戦争と言う暴力から離れた思考でグローバリゼーション的な思考を持っていた日本人はいなかったか?人類愛を唱えた人達はいなかったか?と言う話になると、ラピュタに出てくるムスカ大佐そっくりの田中智學の八合一宇を引き合いに出したり、大東亜共栄圏を誇大思想だとか皇道に無理矢理結び付ただとか、すぐにそう言う話にその思考が一般人にどういった事を意味していたかは別として愚かな選択だったともの凄く大雑把に四捨五入した人達が小説、漫画、映画を撮っているのだからどうしようもない。
私なんかは日本は軍事国家だったか?と言われたら、強烈な軍事体制が悲惨なときは敷かれていて国民もそう思わされていたかもしれないけど、共産主義や社会主義体制の軍事国家と言うのとは全く以て違う、システムが違うのは明らかで軍事国家や否かはシステムの話であって、人々が悲惨だったのはまぎれもない事実であるがあの当時は世界と言うものがあったので、現代に於ける民意の話とはまぎれもなく別の話。と答える。

(最近見た映画では、どうやらこう言った事を無茶苦茶にねじ曲げて2.26事件なんかの皇道派やひめゆり部隊なんかを紛らわしく組み込んだりして思考を停止させて平和主義を誘発させる無茶苦茶な展開の物があった。私なんか一発で最初からフィクションだと見抜いてしまったのでしらけてしまったが、完全に作者の勘違いのイデオローグの集大成でこう言った映画がそこそこの興行成績を獲得する現状は許しがたい。)

GHQに没収書籍の話があるが、こんな話をすれば極端なことを言う奴だと思われるだろう。
しかし、これだけは言っておきたい。
これらの本は戦争に負けたと言う理由だけで没収された。
100%正しいものばかりではない、しかし100%間違っていると誰が言えよう。
中には日本人が日本人として長年の歴史の中で世界と言う物を観た時どうしても知っておいた方が良かった筈の事柄が書かれた書物があったか?なかったか?などと言う事を裁く権利などアメリカにすらなかったのだ。だから、焚書と言う行為は避けて、見えないように徹底した計画で没収し歴史の闇に葬り去ろうとしたのであると、考えるのが当然ではないか。
今そう言った物をほり集めている人が居たりして、その一部が読めるぐらいの時代にはなった訳だ。
戦後の世代で、右、左、関係なくそう言った書籍をアメリカに没収された書籍と言う理由だけで昔の荒唐無稽な物として眼も向けない人間が戦争をテーマにした小説や漫画、映画を作るのは愚の骨頂。没収された作者の中には菊池寛(比較的最近でも彼の真珠夫人はメロドラで流行った)や武者小路実篤、等もいる。

思想と言う物は不滅である。ギリシア哲学やドイツ哲学が不滅なように、日本の古事記などの記紀からなる国学や水戸學(和製漢学の集大成とも言える朱子学や儒学、韓非子などからも影響を受けている)と言う物も本来的には不滅でなくてはならない学問でこんなものまでが没収図書に指定されたのだ!、などと言えば非科学的と言われそうだが、これがそもそもの間違えであって、
ではギリシャ神話から影響を受けたギリシャ哲学はそんなに偉いのか?そう言った物や、ルネッサンスに影響を受けたドイツ哲学はそんなに科学的か?と言う事にもなりうる。(水戸学を全否定することは水戸光圀や吉田松陰、松下幸之助までどころか江戸期から明治維新の偉人達までも否定していることにもなりかねない)
確かに、国学にも没収図書の中には極端なものがある事は否定しないし、なかには極端に右と言われる様な書物の中でも現代史に於ける左翼の進歩主義の西洋の合理主義思想と混ぜた様な物等までがあった(!)りした訳だ。

しかし、

白鳥庫吉など今観ても冷静で広角レンズのごとく相対的に観て公平に書かれている物も少なくない。考えてみれば当時の政治家や学者の中にはケンブリッジ、オックスフォード、ソルボンヌ、ハーバード卒や博士号の人達がちらほらいたのは確かである。またこの知識人たちが繋がっていたわけだ。だから、私等は昔の民間人の悲惨(それは重要だが)に焦点だけを当て、その当時の上層部が何を考えていたかを全く無視し、貶すだけで愚かな戦争と言わんばかりに誇張する現代の作家の作る物にはそれ自体がプロパガンダじゃないのか?と、意を唱えなければならないと思っている。

もう一度言うが、戦争には負けたがもっと大きなビジョンがなかっただろうか?今の思想家や小説家、アニメ作家に繋がるもしくはそれ以上の博愛主義を全く持ってなかったと断定できるものなのか?それを調べもせずに否定する権利は現代人の誰にもないし、史実を捻じ曲げて他国に媚びへつらいゼロ戦のアニメなど作るのは、わけが分からない訳である。
まずざっと見ても思想に関しては誰も新しい物だけが良い等と断定出来る物ではないのである。見えないから全部平和に結びつけ、過去の先人を戦争に負けただけの理由で四捨五入するのは私は間違っていると考える。中には凄い人もいたのは間違えがないからだ。

その中でも、仲小路彰氏の話は非常に興味深かった。あの時代に裏で日本の方向性を操っていた人物の独りでもあると言われている。日本と言う国を遠い眼差しで世界的視野で達観してみていた人の一人だったそうな。どうやらこの人が佐藤栄作首相にノーベル平和賞をとらせた陰の立役者だと言う話まである。この人の本は、かなりの本がGHQ没収図書にされたのであるが、具体的にどの国側類だと仮装言う事をプロパガンダのように言って国民を煽るタイプではなく、当時の知識人に世界の全体像はこうですよ、と言った様な物を淡々ともの凄い量を書き記したそうな。松下幸之助もわざわざ合いにいったと言う話は有名だ。しかし、見事にその存在はかき消され、日本の言論界にも出てこなかった。


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かねてから、戦後に強烈な軍事思想や大和民族思想よりも、もっとアメリカがどうしても消したかった日本の早すぎた人類愛や平和平等主義のような物があるのではないか?と思っていたが、どうやらこの人がその鍵を握りながら山中湖のひっそりとした場所で世間から隔離し、何千曲と作曲を愛し世界人類の平和を願いながら孤独に仙人のように隠遁生活されていたのだそうな。

こう言う事を観ていくと八合一宇、大東亜共栄圏、皇国万歳というのは一般的に大衆に判り易くされた表向きのスローガンでしかない事が判ってくる。また戦後のグローバリズム等と言う物は、共産主義者や左翼が作った物ではない事も同時に判ってしまう。だから彼らにはこれらの戦前のスローガンを責める資格もない。あくまでも両者に於いてスローガンでしかなかったからだ。
私の場合、この人の存在を知ってから、今の反日プロパガンダや、逆に日本国民を煽るわかりやすい両翼のイデオロギー論やメディア戦も政治戦略にしか思えなくなった。



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てな事を考えていると、有機食品スーパーの前にはナチスの親衛隊のようなバイクが止まっていた。
ハイル!である。

そして、⬇の写真の瓶。この瓶は西海岸ではビアジョッキの代用品として使われたりするんだそうな、、、。


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