気まぐれ日記
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人が参考にするべき魚が持つ3つの大きな無意識

新設ブログよりリンクです。


人が参考にするべき魚が持つ3つの大きな無意識
http://wp.me/p4BtxR-W



僕がFacebookやTwitterなど、色んなとこでちらほら書いた事があることです。

「1+1=2」という計算式から考えられる事

最稼働

こちらに訪問の方も見られるので、こちらでは、僕が他で書いた記事等のリンクを貼らせて頂く事としました。

よろしくお願いします。

ブログ引っ越しました。

http://gwizardtk.wordpress.com


引っ越し先ではテーマを決め頑張って行きたいと思います。

こちらのアメブロに、戻ってくるかどうかは、まだ分かりません。
自分を実験してみたくなったのです。

よろしくお願いします。



栗原 隆


つぶやきまとめ、初めてやってみた。ちょっとだけど。

自分の事ってなかなか気付かないよなぁ。
自分のやりたい事、ひとつ見つけた。
僕はお金を沢山稼ぎたいという気持ちより、お金を稼げる術を沢山持ちたい、みたいなんだよな。
直ぐとなりにある様な事で、なかなか意識の中心に持って来れなかった事。
そうか、また傍らにあって気付けなかった事。
お金に頼らず思いっきり楽しめるものを持っている事は、これからの僕にとっては必要なスキルだ。技術のひとつだよ。年収を減らす為に必要な技術だ。
「これが正しい」と思って行動してしまう事は、弱さにもなると思う。
動物、いや、少なくとも家の池にいるニジマスはそんな概念は持っていない。
何かに依存してしまう、してしまっている。という事より、依存している事にも気付けない事の方がリスクを感じる。という実感が持てない事には危機感を感じる。
だから、止まっている事はリスクにしかならない。動こう。様々にバラバラに。時にはブレブレに。

あなたは何に依存してますか? 追記

前々回書いた記事、「あなたは何に依存してますか?」
http://s.ameblo.jp/guitarwizard/entry-11822313466.html

付け足して書きたくなったので、書きます。
僕自身、お金への依存があると思っている。自覚しているつもりだ。
ただ、依存って副作用がある。依存できるものが無くなった時の対応力が無くなる事だ。依存すればする程その対応力は離れていく。
さすがに今の時代からお金が無くなる事はないだろうけど、ゼロじゃない。その位のスタンスを持っていてもいいんじゃないかと思う。
そして、お金というレイヤーから、給料というレイヤーに変えれば、その給料への依存は現代っぽくないっていう記事や話しは、沢山見かけるし、よく聞く。給料を支払う会社って従業員の一生を約束出来る力は持っていない事が多いのも現代。給料への依存も、危ない。もちろん副作用がある。

そして、こういう依存や副作用も知覚出来ていない事は、更に危ない事だと思う。僕自身、頭では分かっているつもりでも実感が持てないから、何か変なんだけど、危機感はある、と実感は持てないけどここには「危機感はある」と書ける。
でも実感が持ててない事には頭では危機感を認識できてるかな。

僕はまだまだ依存があるだろうし、そもそも依存が悪いとは思わない。だけど、自分の意識でその無意識はハックしておきたい。
僕は迷った時は動物をよくみる。家の池にいるニジマスはまず、お金への依存が無い。それなのに僕はお金への意識や依存がある。そんな無意識を持つ僕は、ニジマスから見たら気狂いだ。
僕は気狂いだ。まずはそこからだ。それがデフォルトだ。

僕はこんなレイヤーを持ちつつ、会社というか、組織で働く。
目の前の事に全力になる、とはどういう事なのか考えながら。

iPhoneからの投稿

それぞれがそれぞれにバラバラに行動し、ひとつを果たす

前回書いた最後に、全体を意識して局所的に行動しているはずの車の運転を例にとって書いてみよう。

車の運転って大体使われる目的が、目的地に移動する事か、運転自体を楽しむドライブ、がほとんどではないかと思う。ただ、現在公道で車を運転している人は、教習所という所に通って免許を取得した人がほとんどのはず。
僕は今でも覚えているけど、あの手に汗握る教習。本来移動する為の手段か楽しむ為の車の運転なのに、それどころじゃない。しかも車の教習というものは実際に現場というか、公道を走らされる。これはもちろんの事なんだろうけど、とんでもない情報量だ。
が、今となっては手に汗握る事なんてなく車を運転している。
ここには様々な要因が考えられる。情報をスルーする事が出来る様になっているとか、アクセルやハンドルの感覚がお箸でものをつかむ様な状態になって、大脳を使っていないというかあまり使い方を意識しなくても使う事が出来てしまっている。これはその情報が小脳に移されている事と言えるのか。
その車を運転する人の身体をよく見てみると結構とんでもない事をしている。
両手ではハンドルを握ながらもウインカーやワイパーヘッドライト等を操作したり、足は微妙なアクセルコントロールやブレーキ操作、くわえてマニュアル車ならクラッチ操作までも担っている。それぞれがそれぞれを担っている。
そこでまたまたよく見れば、その両手両足は、それだけクオリティーの高い事をしているにも関わらず、それぞれがそれぞれに徹すれば徹する程、車の運転の最大の目的を果たす結果を出している様になっている。それぞれが局所的に精一杯行動している。
ただ、ここで言えるのが、両手両足は脳からの指令に従っているだけで両手両足自ら動いているわけではない。まぁ、武術的に言うと、両手両足は脳からの指令を超えたものを持っているらしいけど。
なので、司令塔である脳が持っている目的がズレてしまっているとオハナシにならない。
両手はハンドル操作等、両足はペダル操作。これは本来の目的の為に繋がっている。
それぞれがそれぞれにバラバラな事をしているわけだけど、それらが合わさって全体的に見ると目的を果たしている。
車の運転の際、都合がいい事に司令塔はひとつだけ。自分の両手両足に対して司令塔である脳はそんなに酷い事はしない。疲れれば休ませるし、怪我をしていればまず運転はしない。それが本来の目的を達成しやすい要因のひとつと言える。

これを社会と照らし合わせるとどうだろう。
世の中には司令塔だらけ。そして目的だらけ。言い方悪いけど、両手両足も沢山ある。
従業員という両手両足とも言えるものを使う司令塔、とも言える会社という捉え方をするとどうだろう。会社の目的がはっきりしていないと、従業員はとんでもない目にあう。こんな捉え方はほんの一例だろうけど、こういう事は大いに考えられると思う。だから、それぞれがそれぞれにバラバラな事をしているわけだけど、それは目的を果たす為だ。ひとつの目的ではなく、いくつかの事を目的としている事もあるだろうけど、向く方向は一緒のはずだ。だから、司令塔である会社の目的と両手両足である従業員の目的が一緒でなければならない。そして、その会社の目的と社会の目的が一緒でなければならない。と、いち、企業に関わる僕は思う。
一方、近頃の従業員は従業員自体が司令塔というか目的を見出そうとする動きが見られる。当たり前だ。人だもん。
手足が司令塔となる。いや、これは一気に社会を進ませる事になるのでは。僕はワクワクしているし僕自身行動しなければならない気持ちが強くなる。
こういう人が増えて来ているから、現代は激動、転換期の時代なのかもしれない。

あなたは何に依存していますか?

タイトル「あなたは何に依存していますか?」
この答えに僕が真っ先に思い付いたのが、「お金」だった。確か、数ヶ月前の事。

今、この問いを自分に投げかけると、色々思い付く。
もちろん、お金をはじめ、もう少しレイヤーを狭めれば、そのお金がもらえる職場やバイト、今住んでいる家に依存しているなぁなんて簡単に思い付く。極端に言えば、衣食住に依存しているとも言える。
そして少し捉え方を変えれば、それは、安心、安全、快適、便利を求める事に依存しているとも思えるかな。
僕がここにこう書いて思うのは、これらに少なからずとも依存していると思っていた方が、いや、大いに依存していると思っていた方が、考えを進ませやすいと感じている。
依存があるという前提を踏まえて行動する。依存しているという事を無意識的にさせないで、意識して行動する。

ここで、バックミンスター・フラーのお言葉、
全体的に思考して、局所的に行動せよ。
最小限を行使しつつ、最大限を達成せよ。

こんな考えが僕はしっくり来る。まぁ何でしっくり来るのかは謎な部分もあるだけど。
依存をちゃんと意識して知覚して本来求めるべきその依存の先にあるものを人は達成するべきなんじゃないかなぁ、と思えた。
そこで、会社勤めの方なら一度は耳にした事があるであろう定番フレーズ、「数字を出せ。利益を出せ。」って、ごもっともなのは百も承知なんだけど、本来、それが目的じゃないでショ?その先にあるものでしょって僕は思う。その、先にあるものを求める事がいい状態で無意識になっていればいいけど、無意識にもない状態なら、毎日考えて意識するべきだとも思える。企業ならきっと経営理念というものがある。それを意識すればいいと思いもする。ちゃんとネ。(このちゃんとは難しい…)そしてその意識的な事は、新たな無意識を生む、んだと僕は思っている。
僕は、この世の中でお金を稼ぐとはどういう事なのか、どういう事になっているのか、今後も考えていきたい。
僕が収入を得るバイト先、いわゆる会社を考えるとどうなんだろう。
僕はお金を企業から時間の対価としてもらう事が、この世の中にとって、この地球にとってどういう事なのかをたまに考えながら、目の前の労働に全力になったりしている。

依存、という事から、バックミンスター・フラーのお言葉まで飛んでしまった。
なんとも、現在の僕の文章力の無さを感じてしまう。この混沌の表現が難しい、というか、その感じている混沌と、僕が書く言葉がまだ一致していない感覚もある。混沌を言葉で表現する事により新たな混沌を生んでいる様な感覚もある。

この混沌を追求する為にも、次回は全体的に思考して局所的に行動している、車の運転を例にとって書いてみたいと思う。

曝け出して、無意識をハックする

先日、ハイウェイを多用したけど、ETC割引変わってて高額でビックリ。それに増税。
そして、タイヤも履き替えなきゃ。国民年金。もう少しで自動車税。とにかく、出費が。
そこで、思い付いたのは、生活費やこれら以外の出費はまわりに融資を受けるという事。
もちろん、今の僕なんぞに融資してくれる人なんてなかなか居ないだろうという予測をしてしまうけど、そこは中心にない。中心にはあるわけだけど。
これをしたいけど、お金がないから誰かに融資を受ける、と思考を働かせると、何故か僕は、今、融資なんて受けていないのに今手にしている貯蓄が自分のものだけに思えなくなった。
自分のものではあるわけだけど。
お金がないから誰かに融資を受ける、という世界を感じながら考えると、自分の行動にも影響が出てくる。「全力でやらなきゃ気が済まない」と。
ま、実際には形上、融資は受けていないにしても、例えば、僕が音楽教室で教えたりしてお金を頂いていたりする事もたまにはあるわけだけど、そのお金は生徒さんが調達してきたお金なわけだ。僕の行動の対価とはいえ、ここでは僕は融資を受けている感覚に似たものを感じる。そのお金、全力で使いたい、と。
まぁ、ここの「全力」ってムズいけど。
そう、何故に僕が「融資」などというあまり口にしたことなかった事を口にする様になったかというと、お金持っていないから。高度経済成長期の方々からの視点だと、だいぶ残念な存在。
去年の年収なんて200万円いくか行かないか、ってとこ。過去10年で最低記録かも。現在の貯蓄も20万円くらい。今月末には国民年金の一年一括払いで(分割にすりゃいんだろけど)17万くらいが飛ぶ。ありゃりゃ。
そう、高度経済成長期の方々からの視点だとだいぶ残念な34歳。
こんな時だからこそ、意識が行った。「融資」という感覚。
もちろん、生活費くらいは自分でなんとかするにしても、それ以上のお金がかかる行動に関しては、「融資」というのもあり、と思えた。
だけど、僕は、消費者金融とかからは借りない。これには生理的に受け付けない感覚があり、僕単独では借りない。きっとこれも活動のひとつにもなるんだけど、もし消費者金融からお金を借りる時は、それこそTwitterやFacebookとかのWeb上で公開して閲覧者の意見を聞いて、僕単独の意向では決められないかたちにする。
むしろ、消費者金融に頼らず、Web上で資金を募った方が今っぽい感じもする。でももちろん、今の僕が、「この行動したいから僕に投資してくれ」とWeb上で言っても誰も反応すらしてくれないだろうと思っている。まだまだ全然僕の態度も示せていないし、僕自身何が出来るか見えていないし。そう、いわゆる態度経済が作れていないから。
そしてここで僕が思えるのは、周りに自分の行動を関わらせようとすると、その行動がこれからの自分の行動の道標ができる事となる事もあると思えた。
どういう事かというと、僕がWeb上で「これやりたいから3万円、誰か融資を。」と投稿したとする。「それは見ものだ是非出そう」という人も限りなくゼロに近いだろけどゼロじゃないと思うけど、大体は無反応で「誰がお前なんかに出すか」と思われるだけだろうとも思う。そこで、じゃどういう行動なら人はお金を出してくれるだろうと、単純に思えるわけだ。僕に払えない様なお金のかかる行動はそういう風にして決める。誰も面白がってくれないならその行動はしない。ってある意味道標になっていると思う。
マァ、今現在そんなにお金のかかる行動なんて、僕には無いけど。
と、残念な34歳からのある視点で書いてみたけど、年収200万円、現在貯蓄20万円。車で事故でも起こせばガラリと変わる生活スタイル。何ともギリギリでもある毎日。僕を雇う方々、くれぐれもご覚悟を。いきなり、明日行くアシがありません、なんていう事もゼロじゃ無い。
でもね、何故か、根拠の無い自信みたいなもの、理不尽にも持ってます。今現在の職を全部失っても死なない、という変なものが。
そして、去年の年収過去10年で最低だったかもの中、たまに聞く「幸せ度」というもので計れば、その幸せ度は過去最高の1年だったとも思えているんです。年収が増える事が幸せには繋がらないと、気付けた。だいぶ遅い気付きに思えるけど、無意識の部分で気付けた感じがあるし、お金を使うというアウトプットによって人生が変化するという世界がある事も知った。年収を増やすというインプットを増やしたって、そのお金を使うというアウトプットが成長していなかったら、人生の変化は成長しない、進まない。

きっと、もっと年収を増やすには何が必要か、っていう意識より、もっと年収を減らすには何が必要か、っていう意識の方が面白いと思えてしまったからだとも思う。
マァ、そもそも、お金って、未だによく分からない。よく分からない物は使い方を知ってから使えって小さい頃教わった。刃物なんて特にそう。持ち方までレクチャーされたのも覚えている。なのに、お金ってよく分からない。よく分からないのに使っている。それに伴い、痛みも瞬時に分からないから実感が持てないという危機感も持てる様になった。このお金というものに対してはこれからも考え続けたいとも思う。

実際、ここに曝け出したパワフルフレーズにも思える、年収と貯蓄。
これによって僕は、ある意味宗教団体であるともいえる日本政府の布教活動と呼べるものによって洗脳されたとも言える様々な常識による無意識を自分自身でハッキングしていきたい。もっと。
でももう少し貯蓄は持っていないと、とは思うw

数年先に考えているけど、今度は収入と支出を公開する事もやってみたいと思ってる。
やっぱりね、ヤバい事の先には何かあるよ。

ここに書いた事はフィクションではありません。







iPhoneからの投稿

頭で理解するより、心で感じたい、のに。

危機感の実感を持てない事に抱く、変な感覚の危機感。
変な感じです。数学の方程式を解くように頭でヤバさを解いてはいるものの、焦れない。これはマズい事なんじゃないか、と頭で言い聞かせても心が動かない。もっと「ヤベェ」と実感したいのに。
僕は何か誤解してるのか、解けていないのか。ま、誤解も理解もしててもしてなくてもいいんだけど。意識や無意識、理解や誤解って混沌としてるなぁ。

さて。
おーきな悩みは既にある。
地球は地震が起きようが、南極の氷が溶けようが、二酸化炭素が増えようが、放射性物質だらけになろうが、地球は安泰で壊れない。
けど、人が住める状態ではないでしょ、そんなの。けど、現在、その状態に人間は向かっているらしい。
何か不安になった時は、この概念持ってくると、その何かの不安は無くなる事が多い。その何かの不安は、地球に住めているから持てるもの。
不安を解消するには、とんでもなく大きな不安を持ってくるといいんじゃないか。いや、いいってわけでもないか。
そうこの混沌がそもそも必要なんじゃないか。
ただ、今の僕には、その大きな不安も大き過ぎるのか、手に汗握る様な不安の実感がない。ここには危機感を感じるべきなのに危機の実感が、ない。これは大きな問題に思う。
何だ、この危機感を感じれない危機感て。



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