気まぐれ日記 -2ページ目

悩みを解消してくれるもの

日々、色んな悩みがある、と思います。
対人関係をはじめ、経済や労働その他混沌とした事。

今回は対人関係について書いちゃおうかな。
まず僕の事。僕なんて非常に打たれ弱い上に、傷つきやすいというか、胸の痛みなんて簡単に感じてしまうので、様々な事を学ぼうとした。
禅の事が書いてある本を読んだり、剣術家の心を知ればあらゆる状況に対処出来る心を知れるだろうという思いも持ちつつ剣術や武術の本を読んだり研究したり。「傷つかない為の~」みたいな本を読みあさったり、してた。
でもね、のど元過ぎればというか、完璧じゃない。
色んな知識を取り入れても根本的なとこは変わってないなぁ、なんて感じてしまうし。
その上、知識を付けた分、逆に細部まで気にする様になったり。挨拶ひとつで相手を察してしまうし、相手の視線の方向、声のトーン、選んでいる言葉、言葉を選ぶ感覚などなど、いわゆる人の態度から感じられる情報に敏感になってしまっていたり。そしてそれを感じる度に心が動く、痛みも感じる事がある。そしてそれに対する自分自身の行動や言動もぎくしゃくしてたり。
これだけキモイくらいのものを持っている。そして、そんな中でも、学んだ知識やテクニックから、キズを無視する様な思考を働かせたりする事を経て、今では、キズはキズのまま受け入れられる様になった、かな。まぁ、大体のキズは治る事を知ったからか。
そう思えれば、少しは僕は強くなれたのか。
けど、いちいち傷ついているん、です。

で~も!
傷ついたり、凹んだりと、これに対応出来る知識に僕は出会えた、んです。
それは、人の心理やフィジカル的な事とかの中の狭いレイヤーの中だけ見てたって仕方がない、って気付かせてくれた。
そう、あらゆる悩みを解消してくれるものは、更に大きな悩み、だった。
このログの冒頭にも書いたけど、対人関係に悩みを持てるって、とても豊かな事なんじゃないかって思える事が多くなった。そう思わせてくれた知識は、今この地球に起きている事、といえるかな。最近少しずつ読み進めている本(スチュアート・ブランド 著、仙名 紀 訳の「地球の論点」)の内容が僕にとっては対人関係に対応する技術が書いてあった。環境やエコとかを知る事が僕にとっては対人関係に対応する技術と言うか、心の持ち方を身に付ける事となった。やはり人は何かを知ると、変わる。別人になってしまうとんでもなく怖い事。知るって事は怖い事。でも僕は知る事によって、どんどん別人になってもいいと思っている。これは強さなのかな。弱さなのかな。
で、何故に地球に起きている事を知ると、対人関係に対応する心の持ち方まで変わってしまうのかというと、単純です。小学生でも分かります、言葉では。
そんな悩みを持てるのも、この地球に住めているからだよ、ネ。
この地球に住めなくなったら、その悩みすら持てないよ、ネ。
このままの経済システムや、エネルギー使用システムだと、だいぶヤバいらしい。
けど!、普段の生活にも本当は環境とかは直結しているはずなんだけど、実感がない。この実感が持てない事に僕は危機感を感じる。問題が大き過ぎるのか、環境とかに対しての感覚が大雑把すぎて実感がなかなか持てない。これは本当ヤバい事なんじゃないか。本当は環境とかに悩みを抱えてもいいんじゃないかと思えるけど、悩みを持てない事に悩みを感じてしまっている。これは僕にとって大きな悩みだ。
そしてその環境とかエコとか知って得た大きな悩み、生きられるか生きられないかという事と直結している悩みを知るによって、僕の場合、対人関係での悩みの質が変わった、感覚がある。
マァ、めちゃくちゃ胸痛くなる時あるし、単純な事で凹むし、怒るし、泣くし。こういうのはそのままあるって言えばあるけど、胸痛くしている場合じゃないし、凹んでいる場合じゃない、っていう感覚も共にあるんです。いわゆる、混沌。
そんな混沌の中から持つ、持ってしまう悩みとかには、芸術があるんじゃないかとも思う時がある。この場合の芸術は、芸術=生きのびる為の技術。悩み自体、生きる事なのかとも清々しく思えてしまう時もある。

最後に、エコは地球のため、だけとは言えない。極めて、人から見た考え。こんな感じのキャッチコピーもたまに見かけた様な。
二酸化炭素や放射性物質まみれになったとしても地球はなくならないと思う。人が居なくなろうが動物が居なくなろうが、地球は無くならない。人がこの地球に「住める環境」を保ったり良くしていったりする事がエコ、なんだと僕も思う。極めて人間本意。

先日都内を歩いた。昨日はホールでギターの演奏をした。
大勢の人を見て高揚する時もあるけど、大勢の人を見て胸が痛くなる時もある。

すっごく大き過ぎて悩みすらつかめないという大きな悩みがあるから、僕はあまり悩まなくなった、のか。
僕は今までより、もっと、思った事を口にする様に心がけはしないけど、そうなって行くんじゃないかなと予感してます。神がかり的なものには受動態であってもいいのかな、と。
でも自分に対しては能動的でいたいな。
社会もハックしてみたい。
自分自身もハックしていきたい。

モチベーションのキープ

単純なタイトルで、特に大きな問題ではなさそうな感じ、な言葉、「モチベーション」。


何でこんなこと言ってしまうかというと、誰かに「モチベーションをキープしろ!」って言われて、モチベーションをコントロール出来る人がいたらすごいな、と僕は思えるくらい、僕はそう言われてもモチベーションをコントロール出来ないヤツだからだ。
「モチベーションを失ってしまう事は怖い事だよ。」
と僕は言われた事もあるし、言った事もある。けど、僕は知識では理解できてる様な感覚はあるんだけど、体感はできてない感覚があるんです。どういう事か計算式の様に解けても、断崖絶壁の危険なとこに立たされている様な、心動く緊張感も焦りも感じられない、という様な。
そう、知覚できてるのに、体覚できてない、と言っていい様な。
危険を感じられない危険。

だから厄介、だ。

モチベーション、所謂、無意識なとこに潜んでいるもんなんでしょう。
だから、モチベーションをキープしろ!と、その言葉だけ自分自身に言い聞かせてもその無意識は動かない。
そんなもんだから、「生きる」という事に必要であろうもの、モチベーション。そんな大事なものでもあるのに、問題意識が無い。捉えにくい。在る事にも、失った事にも気付きにくい。
本当に厄介、だ。

何でここまで書くかというと、最近僕の中でのパワープレイ、受動的と能動的。
そしてモチベーションにこの受動的と能動的という事をかけると、どういうわけか、ようやくモチベーションを失う事の怖さを体覚出来た、と解けた。
その心は。
受動的になっていると、モチベーションが気付かぬ内に無くなってしまっている可能性を僕は感じた。逆に能動的には、というと、もちろん、壁に打ち当たったりうまく行かなかったりでモチベーションを失う事もあるけど、その時は失った事を自覚出来る事が多いと、僕は捉えている。
受動的になって、この気付かぬ内に無くなっているって、とてもさびしい。

何がさびしいって、さびしいとも思えないからさびしい。

こう感じてしまった時、僕はその怖さを感じれた。
これが、その解いた心。


そして、能動的と受動的。
何に対して能動的か受動的か、という事。
いつも会う人に対してもそう。
いつも行く会社のシステムに対しても、その会社というもの生み出したシステムに対してもそう。
いつも接しちゃっているこの社会や政治に対してもそう。
いつも必ず隣にあるこの地球に対してもそう。
こういうのに対して受動的になっているとはどういう事か、能動的に行動するとはどういう事か。
こんな事を考えながら自分のモチベーションを思うと、また何か見つかりそうな気がする、僕は。

こんな時になんか、ワクワクしちゃう言葉。
「ハックしようぜ」
受動的にも能動的にもなれる対象物に対して、ハックしようぜ!
ヒヒ。
ほんと何かワクワクしちゃう。



それはそうと、モチベーションなんて言葉、僕が言い始めたのも20歳を過ぎた頃で僕にとっては新しい言葉で、何だか得体の知れないもので、「モチベーション」、なんて言葉にしてしまうのも嫌な気持ちも少しあるくらいな言葉でもあるんですけどね。
言葉って、便利だけど、言葉は言葉のまま。
得体の知れないもの、なんて思っててもいいのかもネ。

続、忙しい、のは良い事、か?

昨日の続き。

そう「貧乏暇無し」。

結論から言ってしまえば、能動的に忙しくなっているなら、今の僕の感覚だと良し。
受動的に忙しくなっているなら、悪し、かな。

はっきり暴露してしまえば、僕の収入、所謂、産業系資本主義経済からの日本銀行券の年間所得量は、10年位変わって、いない。
9割が受動的で、稼いでいるというより、時間の対価としてもらっているだけだ。
義務教育やその後の高校とかでインプットした情報のアウトプットの仕方が分かっていなかった事に、ようやく気付いた、30代。そもそもその教育で、アウトプットの仕方を学んだ事も自覚が無いし、アウトプットというそのレイヤーの存在すら知らなかった、無意識にも無かった。そもそもインプットしか教わっていなかったのかなぁ、本当に。
だから、受動態になって色々従える事が、良し、とされちゃってたのかな。

あー、話しがそれた。
そうそう、10年位変わらない年間所得。
その所得感を捉えながら、20代の頃の自分を振り返って気付いた事があった。
20代前半は、暇が多かった。というより、暇に思えるであろう時間が今よりもあった様な気がする。でもサボっていたわけではなさそう。一応、ギタリストやらを目指してた。今思えば漠然に。
ただ、ギターを触っていたい、という思いがあったのを覚えているけど、もっと細かく明確な的は定まっていなかった、んだなと今思う。
今の僕から20代の自分に言える事は、ギタリストになりたいなら、なればいいじゃん、です。
自分自身がギタリストだ、と思えば、それでいい、んじゃないかと。あわせて言えば、プロのギタリスト、としても色々あるぞ、と。企業、会社に面接とか受け、合格とかして、所属みたいのをして、その協力とかを受け所謂メジャーの、とか、全く独立して、自分がその企業や会社がやる事を全部やるか、もしくは、企業、会社とかそんなレイヤー外の新しいところで活躍するのか、とか。
どういうギタリストになりたいのか、それ自体を作って行く事が、自分の人生にとって意味があるんじゃないのか、と。

あらら、また脱線した。
そう、言ってしまえば、20代、ギターを触っていられたんです。
これはほんと、能動的だった、と。呑気だったとも言えるけど。
その時の自分を見て、その時は無意識だったろうけど、クリエイティブに無意識が行ってんな、って思えた。やっぱり、人は、何もする事が無い、暇だと、結局は能動的になるもので、クリエイティブに向かうんじゃないか、と思えた。

でもね、なんだかんだ今の僕は30代。
混沌。毎日、混沌。
その混沌により、自分の行動が、能動的なのか受動的なのか混沌としている。
能動、受動、どっちで忙しくなっているのか分からなくなっている。
ただ、言えるのは、年間所得は変わっていない。

あー、何だか、書いてても混沌として来た。

で、ここで、考えてだけ、愚痴を言ったりするだけで何もしないのは、危険を背負うだけなので、何か行動してみようと、思う。
そこで思ったのは、スケジュールに、「暇」を入れる事にした。
「暇」、で忙しくしたい。








「あ~、暇で忙しい」
って、僕が釣りをやっててふいに口にしてしまったセンテンスなんです。
暇、という感覚が僕を襲って、覆ってならないから、何かをする。いや、何かをしなきゃならなくなる。暇なのに、焦る。何だこれ。

暇で忙しくする。って、能動的に動くって事なんだけど、ネ。

忙しい、のは良い事、か?

2013年6月19日にFacebookに書いたもの-----------



本日のタイムテーブル

0415 起床、朝食等、移動
0500~1700 足カン(ゴルフ場)にて労働(1時間昼休み)
1700~2000 移動、洗濯等の雑事、夕食、この記事を書く
2000~2300 足利NemuNemuにて、音楽教室講師を勤める
2300~0000 移動
0000 帰宅、就寝

ま、忙しい、ね。
こういう毎日を過ごす。
一応、お金にもなるし、あまり不自由なく?、暮らせるだろう。
車も乗れ、アパートも借りられ、酒も飲めたりするだろう(今回は過密だから無理かもしれないけど)。
そして、もしかしたら、何十年かのローンで家も買えるかもしれない。

そんな中「自分を貨幣化する」っていう事を考えると、どうか?
こういう毎日を過ごして、「貨幣として価値ある人」になれるだろうか。
みんなが欲しがる「貨幣」に僕はなれるだろうか。

もちろん、労働の中でも態度は表せる。
教室講師なんてそもそも、態度重視の人間力が問われる素晴らしい仕事にも思える。
誰かからは、一応、頼りにされ、動いては、いるかなぁ。

が、しかし、こういう日々を続けて、いわゆる「態度経済」を生むかどうかって言ったら、直ぐには答えが出ないけど、「?」、だ。
何故、「?」に感じてしまうか、今後、僕の課題だ。
これだけ時間を使って、一生懸命になって、って一概には言えるかもしれない。
が、一生懸命の方向がおかしくないかなぁ、なんて思ったり。

今日1日のタイムテーブルを見て、どんなレイヤーが隠されているか、見つけたい。
このタイムテーブルはどういうものなのか。
ここにこうタイムテーブルを公開する事は、どういう事なのか。

ってな事を考えた、労働後。
さすがに脳のゴールデンタイムである朝じゃないから、頭ん中がモヤモヤのままだなぁ。

さて、今夜のレッスンも集中力MAXで頑張ります!





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さあ、今これを読んでみての感想。
こんな中でも救われているかなぁ、と思える事は、その時に、「書けた」事かな。
パブリックに何も晒さず、自分の中だけでとどめておいたんじゃ、なかなか変わらない、と思う。
やはり、アウトプットの威力を感じた。
まぁもちろん、賛否両論なわけで、これを気に入らない人もいると思うし、その気持ちも分かる。けど、僕は辞めない。そもそも、アウトプット自体そういうもんだと今は思っているし。

そして、僕の頭を擦ったセンテンス、「貧乏暇無し」。
これを書いた時の自分を思うと、まぁこうやってアウトプットしてるから、ほんの少しは自分を俯瞰してみてる事になるんだろけど、そんなタイムテーブルの毎日を続けてたんじゃ、危険だな、って思えた。ま、その時も危険は予知してたみたいだけど。
そう「貧乏暇無し」、は捉え方によっては、良い意味でもとれる。けど、捉え方によっては、とても危険だ。


あ、それを書こうと思ったけど、もう出て行かなきゃならない時間。
そう、ウクレレ講師勤めてきます。
また書きます。

では。

本当の自己満足って。2013年6月17日 Facebookに書いた事読んでの感想?

しばらく、アメブロ記載がなかったので、久しぶりに過去に書いたもの引っ張り出して、揚げ足を取ってみたくなりました。


2013年6月17日 Facebookに書いた事--------


思い描いた事が、行動した事とあまり「差がない」天才?や、賢い人?は、人生を思い描いた様にする事が出来るんだろう。

けど馬鹿な僕は、思い描いた事と、行動した事に「差がある」し、その差がある事に直ぐに気がつかない。
だから僕の人生は思い描いた様にはならないんでしょう。
だけど、行動した様に人生はなっていく。
だから行動しよう。

だけど、僕自身、その思い描いた事自体がどういう事なのか、後で分かる時もある。
自分の行動もちゃんと解像度を高めて、どういう事なのか見る必要もある。
去年まで無意識に持っていた、「音楽で生活する事を目標にしている事」。だけど年明けて、それには色んなレイヤーが隠されていた事に気が付いた。そして、僕はその時までとんでもないレイヤーにいた。単一のレイヤーに。非常に人生を無駄にするレイヤーに。それは小さな無駄で、少しずつ積み重なって行くもので、本当に単なる無駄にしかならず、大きく積み重なった時に影響を及ぼす。それは悪く方向へ働くだろう。
が、最初からの大っきな無駄は無駄にならない。
きっと、「音楽で生活する事」が単一のレイヤーじゃなく、多層のレイヤーの中で、今の僕が理想に思える様にやっている人もいる。

あ~
また自分にしか分からない文章になってしまっている様な。
こう、行動してみるとやっぱり分かるね。
単に、思い描いた事を、書く事すら出来ない僕なんだから。
天才?wじゃない僕は行動した様にしか人生はならない。
自分を知るね。
自分が分かるとはこういう事だろう。
僕は思い描いた様に人生を送れる人じゃない。
行動した様に人生を送る人、だ。

って、思い描いているんだけどね。違うレイヤーで見れば(笑)


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で、これを書いたときから8ヶ月も経って読んでみて、最近の僕にブームを呼んでいる、インプットとアウトプット、という事が意識を擦った。
インプットアウトプットの前に、思い描く事、と行動した事のギャップを縮めようとしても縮まらないだろ、と思えた。むしろ、そこに意識と時間をかけるなら、行動してしまえ!、とも思った。
それに、思い描いた事が実現出来たって、それはひとつの社会の中の実現であって、それとは他の社会からみたら全くちっぽけで、実現のじの時まで意識すら行っていない事も当たり前に予測出来る。混沌とした世の中だし。だから、何か実現したその時にはもう違う事を思い描いているはず。

吉岡秀人さんが言われていた、徹底的に善に生きるか、悪に生きるか、これしかないっていう事は僕にとっては理解しやすかったし、その言葉が言葉として僕の中で蠢きやすかった。
徹底的に善に生きるなら、本当の自己実現、て、世を救う事だとも言えると、今の僕は思う。

そして、その本当の自己実現に近づく為には、アウトプットは必ずし続けなきゃならない事だ。
が、僕は路頭に迷う。いや、迷う事すらしていない様にも感じる。
目の前の事を思いっきりやる、ってどういう事なんだろ?
やり続けている事に真剣になるのもDo.
やり続けてた事をきっぱり辞めるのもDo.
新しく何かを始めるのもDo.
マァそもそもきっぱり辞めるって事自体新しくDo.をした事になる。
このDo.どれにも目の前の事を思いっきりやる、に繋がる。

せめて、Do.の先で迷える状態になれる様に、今の僕は、読む、書く、話す、聞く、見る、作る、事をしようと思う。
インプットアウトプットしながら。



新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。

fimoにて書いた事、添付させて頂きました。


2013年、僕の人生において精神的なものの転機が訪れ、今までにないくらい別人になれた感覚が残る年でした。
今年2014年は、2013年の精神的な転機を基に、行動にもっと繁栄しなければならない感でいっぱいの様な気がしてならないです。
2013年、自分自身を今までの自分と別人と思えるくらいの出来事が起きても、何故か、釣りは外れなかったです。むしろ、釣りがエスカレートしてきました。ここには、何故、釣りに自分をそこまで捧げられるのか、理由の無い情というものがあるんじゃないかとまで、思ったりしています。
釣りに対しての愛、なのかなぁ。なんて思ってみたり。

魚は、1円も稼がずに元気に生きている。のに、僕はお金がないと生きて行けない、という気狂い意識無意識を持っていた、という事に魚が気付かせてくれたのです。
それによって、経済の中の資本主義経済、物々交換経済、ゼロ円経済、態度経済、愛情経済、家族経済、等々、経済の在り方まで気付かせてくれた。色々な生き方の可能性がある事に気付かせてくれた。
社会というのは、人との繋がりだけじゃない。この地球、宇宙すべての存在が繋がっている。もちろん、魚と人との繋がりも社会のひとつだ。
僕は、魚は好きだし、大切にしたいし、傷つけたくない気持ちと、しっかり〆て食べたい気持ちが混在しているわけです。
矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱うとはどういう事なのかとかも考えたりする事が、こういう事に当てはまるんじゃないかなぁなんて思いながら、2014年、転げ回りたいと思います。
魚から見れば僕はそもそも、気狂いです。そう自覚しています。
そして、こう書けるこういう場がある事に感謝しています。
こんな僕ですが、今年もどうぞよろしくお願いします。


栗原 隆
https://www.facebook.com/takashi.kurihara.315
https://twitter.com/takashyman
http://www.youtube.com/user/gwizardTK/videos
http://ameblo.jp/guitarwizard/

釣りと武術と音楽がもたらす創造と藝術

ーーー2013年6月10日にFacebookに書いたものーーーー


今日は勉強day。
早朝から、坂口恭平さんの「独立国家のつくりかた」を再読。っていっても、目次を見て意識が行ったところを、いわゆる乱読。
一度この本を読み終えて、もう数ヶ月経った。
きっと、僕自身、変わっているだろうと確信していて、再読してみたら…、やはり。
前に読んだ時は素通りしてしまったとこが、そう出来なくなっていた。
僕の文章の解像度?的なものが変わっている感じを受ける。
それは、言葉の意味そのもの、とか、そういうのじゃなくて、社会とかとの繋がりを含めた解釈度、というか。

生きる、とはどういう事か。
学ぶ、とはどういう事か。
教える、とはどういう事か。

たったこの3つだけ考えたって、際限が、ない。

少し、乱暴だけど、「釣り」や「音楽」や「武術」みたいだねぇw

こんな事を考えて、何になるかなんて、概念、いらない。
とにかく思考を辞めない。

孕ませるとか創造の感覚の意味での「藝術」は、色んなとこにある。
また少し乱暴かもしれないけど、「釣り」も、僕、「藝術」を感じるんですよね(笑)
簡単に釣れちゃう時はなかなか感じないけど、あーでもこーでもないって試していてやっと釣った時は、本当に思う。その「藝術」を。
あーしたらどうかな?とか、こーしたらどうかな?とか、その時は、「創造」を感じる時がある。
自分の周りの状況とリンクしながら、自分の行動を足して、魚がヒットして来た時、「藝術」ライクなものを感じる時がある。
それは、自分と隣り合わせの「自然」と、自分の「行動」と、魚の持つ生延びる為の技術としての意味での「芸術」が繋がらないと、成立しない。
だから、「自然」は大切。
その、「自然」がなければ、僕の「行動」も生まれないし、「芸術」あふれる魚もいない。

それとは、別に?かな、色んな事が重なり、いや、重なって釣れた1尾を思うと、「音楽」で言えば、「作曲」に似てるね。以前、僕はブログでも書いたけど、色んな状況を自分の周りに作って、自分の意識を投入して「メロを釣る」時もある、と。

武術でいえば、普段何気なく歩いている、その歩き方。
本当にそれでいいの?
って自分に問う時がある。その先があるんじゃないかと。
そこでも、自分の考えを投入してみて試す、事を忘れない。
きっと、何かがあるはずだ。
武術家は、単純な動きでさえ、一生懸けていると思う。

…、ん?
って、俺、何書いてんだ?
読み返しても、僕が思っている事と、書いた事にギャップを感じる。
僕の感情が、言葉に翻訳出来ていないのを感じるね。
今回の内容でも、ちゃんと書いたら、2000字くらいじゃすまない文章になりそうだ。
何かね、、、まだ大きなものじゃないけど、そのくらいか、もっと詳細を記したものを「書く義務」を「頑張るっていう意識はなし」にやらなきゃならない事を感じる。
スティーブ・ジョブスも言われている様に、明日死ぬ事が分かっていたら僕はこんな感じのやらなきゃならない事をやるだろうな。
本当は、それだけやりゃいいんだろけど、色々怖くて、手放せないものもある、んです。
こんなに書く気ではなかったけど、書いちゃったなぁ。
まだまだ下手ですんません。
読んで頂けた方、僕の文章を書く練習に、も、お付き合い頂きありがとうございます。

さて、今日は勉強dayだ!




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2013年10月15日現在、これを読んで思った事は、書いていた事を忘れていたけど、読み始めてみて、その時の感覚が甦る。が、感じ方が変わっている。そう、今の僕は、その時の僕と別人になっている感があった。体調の変化とかそういうもんじゃない。たった4ヶ月で変わるもんなんだなって実感した。それは良い悪いじゃない。そんなレイヤーじゃ、ない。
ただ、この文章、詳細までもっと書けると面白そうに思えた。こういうのを僕はやるべきなのかな?人の無意識にも問えると思うし。
本を書くのか?僕が?
まさか。(笑)
どうだろう、ね。
そして、最近気付いた事だけど、人と話していても、この文章の中にも書いた何かが生まれる「創造」的なものを感じる時がある。僕はそんな会話をしたい。そんな宴をしたい。誰かと話していて、何かが「釣れた」感を感じる時がある。それは藝術、創造なのか。分からないけど、その時はすごく楽しい。
釣りや武術や音楽に限らず、こういった事は日々、気付いていないだけで、自分の周りにあふれているのかもしれない。釣り人ならわかるかもしれないけど、事故的に釣れた時ってビビるし、良い意味で思いがけない魚だったりしたら身体が震える事もある。そんな感覚が日常にあふれていたら、ヤバい、よね(笑)

とりあえず今日はこの感想まで。

内側からの理解と外側からの理解 2013年6月6日 記 Facebookより

ーーーーーー2013年6月6日 記ーーーーーー

昨日、労働場の足カンにて、ある作業を人に教える、という事に携わった。

難しいよね(笑)

僕が言った事に対し、そうゆう反応するんだぁ、等々。
w内容は割愛させて頂きたいけど、僕がこういう反応をしてくれるだろうなと思った事とは異なる反応が返ってくる。
そういう反応(割愛すんません)が返って来てしまう、という事で、僕は、この作業を覚えてもらう以前に、「時間の過ごし方の姿勢」というか、そんな事を気付かせたくなった。
僕でも、研究?って程の事じゃないけど、この先、どんな職種に転職しようが、一生使えるであろう技術を労働を通して手に入れる事は出来ないかな、と考えている。
貧乏性?なのかもしれないね、僕は。
例えば、ゴルフ場で色んな作業覚えたって、辞めて全く違う職種に就けば、そのゴルフ場で覚えた作業内容なんて無駄になる、と単純に考えてしまうだろう。

って、考えてるようじゃ、その作業内容を覚えた、とは言えない。
無駄にはならない、し、もちろん無駄もあるだろけどね。

どんな職種に転職しようが、使える技術が、「社会人としての、仕事」になるんじゃないかな、、とも近頃思う様になった。

まず、「学び取る技術」、これは一生使えるだろう。
これに関して僕も研究中だけど、列挙する。
言われた事が出来る様になって、当たり前。
独りで出来て、失敗も直せてアフターケアも出来て、当たり前。
人に教えられて、普通。
教えた人が、人に教えられる様になって、普通上。
そして、こういう考え方が他にないか、こういう考え方以外の考え方がないか、常に考える。
等々。
ってな事を考えながら、作業ひとつひとつ学び取る。

そして、それに付随して、教えたり、教えられたり、失敗して怒られたり、誰かと一緒に同じ作業をしたり、と、そんな中でも、「仲良くする」事を忘れない。
もちろん僕自身、合わない人?っていうのも存在する。
その時は、社会人としての仕事だから、と、「仲良くする技術」を使う、という意識がある。とにかく、「怒らない」、くらいだけど。

そんな中、僕にはかなり欠損している事だけど、変だな?とか、理不尽に思う事はしっかり言い、反発する、「変な我慢はしない」という事。
その理不尽に思う事って、なかなか独りじゃ判断出来ないだろうと予測出来るので、僕は、とにかく、理不尽、変に思ったら、常に所持しているiphoneで録画してやろうと思っている。

ってな事はどんな職種でも使えんじゃないのかな?
もしくは、自分が就くべき職種の幅が広がる、と同時に、的も絞れるというか。

と、いう事を考えながら、ひとつの作業を覚えたら、もっと理解度が深まるんじゃないかと、思うわけです。
教育者として、被教育者になかなか伝わらなかったり、覚えてくれないのは、教育者側の作業や物事の理解度が浅いからだ。
どんなに難しい事だって、教育者側の理解度が深ければ、伝わる、伝えられるはず。
伝わらないのは、学び取る方の問題じゃない。
教える方だ。

って思想もあっていいんじゃないか。

たったひとつの作業を教える、教わるっていう事に、こんな事が含まれているんだよ、って事を昨日、作業を教えた人に伝えたいなぁ。
そして、昨日の僕の失敗。
暑かったっすよね。僕はわりとスイッチ入っちゃってたので集中力が続いてほとんど疲れも気にならなかったけど、相手には疲れが出てた。そんな中、水一滴も飲まずの3時間半。そして、「すみません、水、いいですか?」の一言も似合わない雰囲気を作ってしまっていた僕は、駄目教育者、でした。これは反省、ほんと反省。
気をつけよう。健康管理は、社会人としての仕事だ。

まだまだ、一生使えるであろう技術、あるけど、まだ言葉に翻訳出来そうにありません。モヤモヤのまま。
そんな中でも、日々、僕は研究を続けます。
また、モヤモヤが増えるなw




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2013年10月3日現在、これを読んで。
学び取る技術、これ自体を学ぼうとしても学べない。これは外側からの理解なんじゃないかと思う。でも内側からの理解がないと外側からの理解はやって来ない。
物事の内側にいて物事自体を学ぶ。その時は内側にいるから外側からの理解の存在が分からない、気付かない。でもいつ、とは言えないけど、ふとした瞬間に何故か出会う。その時外側からの理解がやってくる。
っていう様な事、なのか。今の僕には、この事は「音」としてしか捉えきれない。文章そのまま聴いたままのまま。不思議な感覚だな。

後生を感じた。 2013月6月4日 Twitterより

先生、と呼べる人は、僕の周りに沢山いて、先生という概念が認識できる。

近頃、先生と逆の、「後生」というものを感じる様になった。
初々しく突っ走る後生。
出会う先生によって、後生のあらゆる事が決まると言っても過言ではない。
責任持てよ、先生。
僕も含め。

歳とったな、俺。

2013年6月4日 記



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2013年10月1日現在

生きる、という事に関して言えば、今の僕じゃ後生に教えれていない事に気付く。
後生に逆に教わってしまう事もあるくらいだ。
何を教える、にしても、結局はそういう事を僕は伝え、教えて行くべきだと思う。少なからずとも人に教える事をしている僕は。
先生自身が、人生を攻め、自分の無意識と闘っていなかったら、それは教えられないと思う。
教える、っていう事にも、沢山の世界とレイヤーがある事に気付く。

そもそも、先生と後生のジャムセッションは絶えず「生きる事」に没頭している事なのかもしれない。先生から教えられ、後生から教えられ。お互いが振る舞う。舞う。

遠くに思える存在を繋げる 2013年5月30日 記 Facebookより

ーーーーーーー2013年5月30日 記 Facebookよりーーーーーーー

仕事と労働を違うレイヤーに分けると、ほんとよく見える。
社会人の仕事、まず、「仲良くする」って事は外せない。
労働なら労働の中で、その社会人としての仕事、そう、仲良くする事が当たり前に出来ていないとなぁ、と思う。
子供はいつもそうしようとしているし、僕も子供の頃、仲良くしなさい、と教わってた、はず。

まず、仲良くする事、これは社会人の当たり前な仕事だと思うなぁ。

でもこれは言いなりになる、って事じゃない。
しっかり断ったり、嫌な事は嫌だと言う事も、仲良くする事に繋がると思う。
これもまた、何層かレイヤーを感じるね。

何なんだ、最近の俺、どっと、いろんな感覚が押し寄せてくる。
今までボケッとし過ぎてたのかな。頭の悪さが目立つ。
思った事をうまく文章に出来ないなんて。

ま、暇しないからいいけど。



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2013年9月25日現在
この自分の文を読んでみて、こんな事を考えてしまうのも、今の社会システムあっての事なのかなぁと思ってしまった。
こんな概念自体が無い民族も、地球上に沢山いらっしゃるでしょう。
仲良くする事に努力するって、何だ?ってw
っていう様に、分析するだけに留まっちゃいけない。分析してどうなっているか、だけを、僕なんぞが悲観的?にここに書いたってそんなに効果もないだろし、僕自身面白くない。それに、変えようとしても難題だらけだろう。だから、新しく作る事が今の僕にはしっくりくる、きてしまう。
じゃぁどうするか、難しい事は言わない。
モバイルハウスを作ってみて、実際そこに寝泊まりしてみる事だ。
きっと政治、ってそういう事だ。
そのレイヤーから、「仲良くする事」って事を見ると、努力するもんじゃ無くなっていると思うんだよな。仲良くする事に努力するって事自体、そもそも荷物でしょ。なら、身軽になってもっとやるべき事、やらなきゃならない事に没頭した方が心地よく思えるなぁ。危機感が隣にある心地良さとも言えるべきものも当たり前にあってもおかしくない世界、が。
僕にはそういう世界が理想に思えるからここに書く、んです。