◎THE STRANGER
▼ザ・ストレンジャー
☆Billy Joel
★ビリー・ジョエル
released in 1977
CD-0385 2013/4/2
ビリー・ジョエル5枚目のスタジオアルバム。
フィル・ラモーンが亡くなりました。
先ずはその記事を、AFP時事から引用します。
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フィル・ラモーン氏(米音楽プロデューサー)30日、ニューヨークで死去、72歳。
ビルボード誌によると、大動脈瘤(りゅう)のため入院していた。
南アフリカ出身。
58年にレコーディングスタジオ「A&R」を立ち上げ、ポール・サイモン、ポール・マッカートニー、バーブラ・ストライサンドらのヒット曲を手掛けた。グラミー賞受賞は14回に及ぶ。
革新的な技術を活用したことで知られ、世界初のCDとして発売されたビリー・ジョエルのアルバム「ニューヨーク52番街」をプロデュースしたほか、初のポピュラー音楽DVDにも携わった。
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フィル・ラモーンといえばやはり、僕は、ビリー・ジョエルを、さらにこのアルバムを真っ先に思い浮かべます。
Yahoo!のニュースの見出しやこの記事では「52番街の」と枕言葉がついていたけれど、僕はこのアルバムをここに記事として上げることにしました。
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と意気込んではみたものの、少なくともある年齢以上の日本人にとって、このアルバムは、いまさら僕が何を言わんかなという名盤中の名盤でしょう。
あ、でも、だからといってまだやめませんよ(笑)、どうかもう少しお付き合いいただければと。
「洋楽」という日本語があります。
主に英米のポップソングを表す意味での「洋楽」という言葉を最も象徴的に表しているのが、ビリー・ジョエルでしょう。
入り口としてビリーから洋楽を聴くようになった人も多いのではないかと。
おそらく日本では、音楽を好んで聴く人でビリー・ジョエルやこのアルバムを知らない人はいない、洋楽が好きな人でこれを聴いたことがない人はいない、というくらいの存在ではないかと。
ビリー・ジョエルはどうしてそれほどまでに売れたのか。
大前提として、日本人好みのメロディアスな曲を書く人というのはありますが、それだけでは見えてこない部分がビリーにはある。
高度経済成長期の日本人の心に合ったのでしょうね。
1970年代は日本でも海外旅行が自由化し、海外への憧れが強くなったことにも関係ありそうです。
ただ、そもそも70年代は洋楽が盛り上がっていたので、それはキッスでもアバでもビー・ジーズでもスティーヴィー・ワンダーでも同じではないのか。
ビリーの音楽は、曲も歌詞も、表現の細やかさが日本人にも伝わりやすい。
そんなビリーは自身を「外国人」として歌っている上に、ビリーの音楽は「多国籍かつ無国籍」だから、ビリーを通すことにより、まだ外国に不慣れだった日本人でも近しく外国に触れられたのではないかと考えます。
都会志向であることも、時代に乗った部分でしょう。
ただこれについては、地方の疲弊など数多の問題を今に積み残したままきてはいますが。
しかしビリーは、4作目までは少し注目されたくらいで、鳴かず飛ばずより少しまし、くらいで足踏みをしていました。
その4作目は記事(こちら) を上げましたが、そこで僕は、ビリーは人が良すぎる、4作目までははったりがない、というようなことを書きました。
100位にも入らなかったというアルバムの後、ビリーは真剣に売れることを考え始めた。
そんな中でフィル・ラモーンと出会い、音楽が整理されよりポップに聴きやすくなり、大ヒットにつながった。
いい曲が書けたことは大きいけれど、それ以外の部分も、意識面でかなり成長したことがここでは感じ取れます。
1曲目Movin' Out (Anthony's Song)
♪ カッカッカッカッカッカッカッカ、というところを歌った人おそらく多数(笑)。
前作との大きな違いのひとつがこれ。
いい曲を書くだけ以上に「面白い、楽しい」という要素を取り入れたことがヒットにつながった。
それは邪道でこざかしいことかもしれないけれど、でも流行歌なんて印象に残ってなんぼですからね。
ビリーの場合はそもそも曲がいいのだから、付加価値としてそれはありかと。
ビリーの意識が変わったことがこの♪カッカッカッカッに表象されているように感じます。
誰かをテーマに歌ういかにも狭義のシンガーソングライター風の曲というのも、もう70年代後半にはなっていたけれど、日本ではニューミュージックが流行っていたこととも重なってくるように思えます。
僕はビリーのコンサートは3回行ったけれど、この曲は確か3回とも演奏していたと記憶していて、ビリーもお気に入り、コンサートからは外せない曲なのでしょう。
2曲目The Stranger
口笛のいちばん高い音が出せなくて笑いを誘った人これまたおそらく多数(笑)。
あ、もちろんどちらも僕自身も含まれていますけどね。
多国籍かつ無国籍の象徴で、実はこの曲、リズムはレゲェですよね。
アルバムの表題曲でもあり、先に触れたことの繰り返しになるので省きますが、日本における「洋楽」の代表を1曲だけ選べといわれれば、僕は迷わずこれを選びます。
この曲にはすべての要素が揃っているから。
洋楽の象徴というか、「決定打」かもしれない。
3曲目Just The Way You Are
「素顔のままで」、こちらも70年代を、「洋楽」を象徴する曲。
しかし、ビリーが最初の奥さんに捧げた個人的な思いの曲であり、離婚後暫くはコンサートでは演奏していなかったこともあって、僕は、ビリー・ジョエル自身の象徴ではあるけれど、「洋楽」の象徴となると個人的な部分が出過ぎていると感じます。
またそのような事情により、僕はなんとなく距離を置いていた時期がありました。
実際、大学1年の時、僕が生まれて初めて行った洋楽のコンサートで、これは演奏されなかった、そりゃがっかりしたものです。
でも今はやっぱり大好きな曲ですね。
かけていると絶対に口ずさむし、歌っていて口の中でまるでスイーツのように歌メロがとろける感覚がたまらない。
僕がこの曲を最初に聴いたのは高校1年の時でしたが、これだけまっすぐな歌詞は初めてで、ある意味ショックを受け、また感動しました。
「髪の毛の色をそめないでほしいな」と彼女に話しかけるあたりが、特にリアルで。
だから、狭義のシンガーソングライターとしてのビリーの象徴でもある曲ですね。
音楽的な面でいえば、「ぺったん」という感じで鳴るドラムスが面白く、どことなあくラテンの香りが混じっている、でもラテンじゃない、そこがビリーらしさ。
4曲目Scenes From An Italian Restaurant
アメリカ人の口から「イタリアン・レストラン」なんて言葉が出てくるなんて・・・
そうそう、ビリー・ジョエルはアメリカ人で最も日本で売れた人でもあるでしょうけど、決してアメリカンロックではない音がそうさせたのでしょう。
つくづく不思議な人です、本人はアメリカを代表しているはずなのに。
この曲のグルーヴ感がたまらない。
ビリー・ジョエルという人の魅力、もちろん、楽曲の良さは抜きん出ていますが、同じくらいに重要なのが「グルーヴ感」ではないか、と。
自然にのせられるクールなグルーヴ感にきらびやかな音といいメロディが結びつく、そんな音楽は、なかなかない、ほとんどないというか。
このアルバムが売れた頃、コンサートに着飾った紳士淑女がたくさんやってきたのを見てうんざりしたビリー、僕はほんとうはロックンローラーなんだと言いたかった、というのは割と有名な逸話。
実際、この曲の中でもビリーが"Rock and roll"と叫んでいますし。
また、ビリーはピアノを打楽器として接していると、確かめざましテレビの来日の際のインタビューで見たのですが、そういう感覚も、ただ歌がいいだけではない、ロックンローラーとしての部分を感じさせます。
ビリー・ジョエルが意外と車に合うのもそれで頷けます。
この曲も僕が3回行ったコンサートですべて演奏された、まさにコンサート向きの曲ですね。
♪おおぅ、と歌う部分の後に入るピアノのフレーズがオクターブ上だったり下だったりで面白い。
5曲目Vienna
ウィーンはビリーにとっても異国の地であり、こんな曲があることも異国の地への思いを共有しやすかったのではないかと。
このアルバムを聴くと、連鎖的に「ジョニ黒」も思い出したり(笑)。
そしてこれはウインナーコーヒー。
なんてもういい、アコーディオンが入っていかにも欧州の響き。
6曲目Only The Good Die Young
アコースティックギターのカッティングがダイナミックに曲を揺り動かす、切れのいいロックンロール。
サビでソウル風のブラスが入ってくるところがまた面白く楽しい。
7曲目She's Always A Woman
フォーク風のワルツのバラードで、ピアノの響きがとりわけ美しい。
このピアノの音は、桜が散る様子を思い起こさせますね。
日本では、まさに今、そういうところがあるのではないでしょうか。
札幌はまだ、ひと月以上先のことですが(笑)。
8曲目Get It Right The First Time
♪らんららっららんららっらおおぅ~、という部分がまた印象に残り、耳から、頭から離れない。
それにしても、当たり前のことだけど、この頃のビリーの歌詞はみんな若々しい。
そんなところは、当時若かった人にはまた二重にうれしい、或いはほろ苦いところかもしれない。
これも「んたぁ~んたぁ~」というドラムスが全体を引っ張っていますが、70年代がフュージョンの時代でもあったことにもつながってくるサウンドともいえるでしょう。
9曲目Everybody Has A Dream
このアルバムは、夢を感じますよね、大きく広がる夢。
この曲の音の響きは、時代を離れて今聴いてもそう感じさせるもので、海外への夢が広がっていた1970年代には、まさに夢を抱かせてくれる音楽だったのでしょう。
ビリーは誠実な人だから、それをちゃんと言葉で表した曲を用意している。
あまりにもきれいに出来過ぎた話だけれど、ポピュラー音楽は時代とは切り離せないものであり、時代の中で持っているもの以上の魅力を発するものだから、ビリーにこれを作らせたのはまさに時代の力が大きかったのでしょう。
最後のコーラスは、ひとりじゃないことを知らせてくれる。
朗々たるワルツのバラードでアルバムは終わり、と思ったところでまたThe Strangerの一節がリプライズとして入ってくる。
ひとつの素晴らしいアルバムが終わります。
1967年生まれの僕は、このアルバムの頃は小学生で、リアルタイムでは経験していません。
でも、父は自営業で自宅で仕事をしており、仕事の時にラジオをずっとかけていたせいで、ビリー・ジョエルという名前は既に知っていたし、CMでもよく使われていましたので、後にアルバムを買うと、知ってる曲がたくさんありました。
ビートルズの後で洋楽「解禁」となり、真っ先に聴いたひとりがビリー・ジョエルで、しかも当時の最新作であるTHE NYLON CURTAINではなく、52番街とこれ、過去のLPを先に買ったのでした。
1982年のことだから、まだ70年代の残り香がぷんぷんとしていた時代、懐かしい。
◇
最後にもう一度、フィル・ラモーンについて。
フィル・ラモーンはもちろんビリーを聴いて知った人だから、ジョージ・マーティンの次に僕には古くからおなじみのプロデューサー。
そしてフィル・ラモーンは、ジュリアン・レノンのデビュー作を手掛けることでビートルズともつながった。
Valotteのビデオクリップには確か彼自身も写っていましたよね。
後にポールのOnce Upon A Long Agoも手がけました。
昔からおなじみのアーティスト、音楽関係の人が亡くなるのは、やはり寂しいですね。
ビリーもFacebookで、フィル・ラモーンへの思いを綴っていました。
R.I.P.