![自然と音楽の森-Feb04DavidCrosby1st](https://stat.ameba.jp/user_images/20120204/12/guitarbird9091/50/dc/j/t02200147_0360024011773590604.jpg?caw=800)
◎IF I COULD ONLY REMEMBER MY NAME...
▼イフ・アイ・クッド・オンリー・リメンバー・マイ・ネーム・・・
☆David Crosby
★デヴィッド・クロスビー
released in 1971
CD-0197 2012/2/4
デヴィッド・クロスビーのソロとしての初のアルバム。
本日は、よく聴き込んでいたり昔から聴いてきているアルバムではなく、買ったばかりのCDのいわばインプレッション的な記事です。
デヴィッド・クロスビーは、僕が思うに、僕がある程度以上よく聴くロックミュージシャンの中では、最も天才肌の人でありまた気まぐれな人であって、わが道を突き進む頑固な人、いわゆる芸術家ではないかなあと。
具さに調べてはいないけど、もれうかがうところによる情報を集めると、僕にはそんなイメージがあります。
デヴィッド・クロスビーは言うまでもなく、と思いつつ一応書くと、ザ・バーズでデビューしアメリカいちのロックバンドになったところで脱退、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、元ホリーズで英国人のグレアム・ナッシュと結成したクロスビー・スティルズ&ナッシュでロックのひとつのスタイルを確立した、ロック史の中でも重要な人物のひとり。
CSNは2枚目でニール・ヤングも加わりますが、スティーヴンとデヴィッドの意見の対立が激しくてアルバム2枚ですぐに解散、しかし数年後にまた何事もなかったかのように復活しました。
このアルバムは、CSN及びCSNYが2枚の傑作を残して分裂した直後に出たもので、音楽的にはじゅうぶんにCSNYの流れの上にあると言えるもので、CSNYにおけるデヴィッドの役割が明確に分かります。
参加アーティストがまた豪華で、1曲目Music Is Loveではもはや朋友となっていたグレアム・ナッシュとニール・ヤングとの共作で3人が演奏しています。
この曲のタイトルは時代を感じる上に彼らの思いも感じられていいですね。
以下主な参加メンバーを挙げてゆきます。
2曲目Cowboy Movieにはグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシア。
3曲目Tamalpais High (At About 3)にはジェファーソン・エアプレインのヨーマ・コーコネン。
4曲目Laughingにはガルシアとジョニ・ミッチェル。
5曲目What Are Their Nameにはヤング、ガルシア、いずれもジェファーソン・エアプレインのポール・カントナーとグレイス・スリック。
6曲目Traction in the Rainにはナッシュ。
7曲目Song With No Words (Tree With No Leaves)にはガルシアとサンタナのバンドで後のジャーニーのグレッグ・ローリー。
そして8曲目Orleansと9曲目I'd Swear There Was Somebody Hereはクロスビーひとりで録音、という具合。
まるでウェストコースト展示会のようであり、ウッドストック同窓会でもありますね(笑)。
そして面白いことにというか、当然というか、スティーヴン・スティルスは参加していないですね。
デヴィッドは頑固そうと書きましたが、でも、豪放磊落で恰幅がよくてお茶目で人情家だけど一方で弱い部分も割と平気で見せてしまう人、というのが僕が思い描いているデヴィッドの人物像です。
兄のように頼る人もいるでしょうし、なんとかしてあげなきゃと感じる人もいる、だからこれだけの人脈なのだと思います。
さて、音楽についての僕の印象を。
デヴィッド・クロスビーは芸術家肌であるだけに、極めて感覚的な音楽ですね。
もちろん音楽は感覚があって成り立つものだけど、でも、普通の人は、こういう歌を作りたいとか、こんなことを表現したいといった指針というか方向性がまずはあって、それに沿って自分のイメージに近い音を曲にするのだと、僕も一応は曲を作ったことがあるのでそういう流れが多いのだと思います。
歌詞が先に出来ればその歌詞を生かすような曲にしようと「考える」だろうし、逆に何も考えずにぽっと浮かぶ場合もあるでしょうけど、基本的には何かを考えて臨むことが多いのではないかと。
でもデヴィッドは、考えるという行為が一切ないまま曲を作っているのではないか。
曲のテーマだけを設けておいて、頭に浮かんだ音、辺りに漂っている人間には聴こえない霊気のようなものを感じ取って人間が聴こえる音にしていく、その結果が曲になっているだけという感じで響いてきました。
歌詞はもちろんあるのですが、人間に分かるように言葉もつけてみたという以上のものではない、もしくはライムにより音の響きを補佐しているだけ、もっといえば人間の声も楽器のひとつにすぎない、そんな感じがします。
努力という言葉が似合わない、そんな人でもあります。
だから正直、ポップソング指向が強い凡人の僕には、いまいちつかみにくい音楽です。
聴いている時は、分厚いコーラス、浮遊感のあるギター、切れよく鳴るアコースティック・ギター、それらに包まれた曲の流れをこちらも感じ取ることができます。
それは身を委ねて聴くことができる極上のサウンド。
でも、人数倍曲の覚えが悪い僕には、聴き終わると曲としては頭の中に残っていなくて、ひたすらいいサウンドだったなという印象だけが残ってしまいます。
凡人である僕には、音楽があてどもなく漂っていく感じがして、何をとっかかりに曲を把握すればいいのかが分からないのです。
ただ、分からないからこそかえって何度も何度も聴きたくなってしまうともいえます。
分からないものを掴みたいという思いと、サウンドの気持ちよさ、そしてこんな音楽を作ってしまったデヴィッドへの尊敬の念など。
これはある意味、音で何かをイメージしてゆくクラシック的な音楽かもしれません。
歌詞はあるけどそれは人間の声が音として補佐しているだけという点でも。
またある意味、プログレッシヴともいえるのではないかと思います。
もちろんデヴィッド・クロスビーがプログレだなんて話は聞かないけど、既成の概念ではとらえきれない音楽世界を持った人であるのは間違いないでしょう。
それらの感覚が相まって、ある種荘厳な響きの音楽が繰り広げられています。
ただひとつ気になったのが、デヴィッドの歌い方。
歌手らしい歌い方ではないというか、声がしっかりと出ていなくて荒々しいだけでちょっと細いと感じることが多々ありました。
声自体はカッコいいし好きですが、声が不安定というか、それは気持ちの不安定さを表しているのかなと思ってしまうこともあります。
ともあれ、なんだかすごい音楽を聴かされた気分になりますね。
こんな音楽があったのかって、しかもそれがアメリカ人の音楽であるというのがなおのこと。
やはり天才であり芸術家だなって思いました。
デヴィッドはこの後、CSN(Y)再結成も含めて、基本的にはグレアム・ナッシュと一緒に活動をしてゆきます。
2人のアルバムも何枚も出ているし、デヴィッドのソロにもグレアムはだいたい参加しています。
それは、デヴィッドの音楽があまりにも芸術的に過ぎて一般人には受け入れられにくくなってしまうところを、人格者であるグレアムが一般の人に分かりやすくするポップなエッセンスを加えて作り、そこでようやく商業芸術として成り立つ、そんな図式ではないかなと想像しました。
デヴィッド・クロスビーとグレアム・ナッシュは、お互い相手の中に自分にはないものを見出だし尊敬しあっている、そんな仲なのでしょうね。
アルバムのタイトルは「もし僕が僕の名前さえ思い出すことができれば」とい意味深なものですが、それも、確信と不安の間を揺り動く天才的な感覚を表しているように思います。
一昨日届いて、今日は朝からこればかり聴いていてもう10回目くらいになるけど、やっぱり曲として覚えられない・・・(笑)・・・
でも、こういうアルバムがあるのもまた楽しいですね。
僕が死ぬまでにこのアルバムから何かを掴めるかな。
やっぱり、天才と凡人は、住んでいる世界が違うんだろうなあ。