釘彫伊羅保 内村慎太郎(中編) | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 モエカの様子から想像すると、バンドは今新しいアルバムを録音していて、自分たちの新曲をファンに聴いてもらいたくて仕方ないという感じだった。披露された4曲は、だから、そのなかでも選りすぐりの作品で、「どう、この曲?いいでしょ!」と心の中で聴衆に訴えながら演奏していたはずだ。確かに、曲も悪くなかったし、なかには、これはきっと好きになれそうと思える曲もあった。そういう消極的で推量的ないい方しかできないのは、ライブに向けて予習してきた「古い曲」に比べると、その理解度が格段に違うからだ。聴衆は新曲の良さをすぐさま理解できない。せいぜいノリや第一印象で判断するにすぎない。あるいは、理解しようとじっと集中するものだから、盛り上がったリアクションまで気が回らない。結果、会場の反応は、おなじみの曲のときよりボルテージが下がったようにみえてしまう。これに対して、なじみのヒットソングは、どこが曲の山場でどこで手拍子や声援を入れればいいかわかっているから、聴衆全体で大きなうねりをつくることができる。モエカの「古い曲が聴きたいんだよね。」は、そのへんのところを微妙に察知しての言葉と思う。
 
 彼女の場合はあくまで軽く触れる程度だったが、実は、この手の話は音楽シーンにはつきもののようで、かつてピンクフロイドのロジャー・ウォーターズは「なじみの曲ばかり聴きたがる聴衆との間に壁を感じる。」といって、「ザ・ウォール」というアルバムまで制作してしまった。まさに、自分たちの新しい試みを理解しようとしないファンからの疎外感が生んだ作品である。かれらは、おまけに、そのニューアルバムをひっさげて始めた「ザ・ウォール・ツアー」で、ステージと客席の間に実際に壁を積み上げていくという演出さえ行った。しかも、演奏する曲目も二枚組アルバムそのままで、たくさんあるかれらの過去のヒットソングは一曲もない。ウォーターズは「ザ・ウォール」に、自分が体験してきた世間との「壁」や東西冷戦の「壁」など他の隠喩も込めて、むしろそちらのほうが話題になったが、それらを生むきっかけとなった聴衆との「壁」をこれほどの徹底ぶりで作品化した例は他にない。それに比べればモエカの愚痴めいたひと言などかわいらしいものだ。

 ツアーに携わるミュージシャンは、長い期間で各所を回って何度も同じ曲ばかり演奏するから、よけいにこの思いを強くするのかもしれない。ただ、どんなものづくりにでも、多かれ少なかれ同じような現象は起こり得る。やきものに関しても、たとえば、内村さんの井戸茶碗がいいとなってヒットソングのように定番になれば、皆がそれをいつまでも求めることになろう。作家は個展の度に井戸の出品を欠かさないし、愛好家たちも必ずそれに期待する。それはちょうど、聴衆がヒットソングを聴きたがるというサイクルと同じ軌道を描く。幾人かの作家さんとお話をするなかで、個展ではほとんどの方が自身の定番ともいうべき作品をまず求めるという。ライブに来るファンと同様、作品を直に観ようというひとたちは皆、それぞれ作家のヒット作品を求めて個展を訪れる。作家にとって、それは自身の商売で最も有力なメシの種で、それがあるからこそ個展が成立するとさえいっていい。ポップシーンでいえば、1曲のヒットソングがあれば当分食っていけるのと同じ理屈だ。逆にいえば、いかなるクリエーターも、まずはひとつのヒット作品を、それがうまくいけば次は第2のそれを生み出すべく、日夜創作活動を続けているのではないか。モエカが新曲に執着するのも、クリエーターとしての本能がなさしめるところなのかもしれない。
 
 ただ、そこで忘れてならないのは、たとえば内村さんが定番の井戸をつくることに果たして退屈しているか、という点だ。今回の奈良の個展で、作家は、もちろん、新曲ならぬ新しい試みにも取り組んでいたが、だからといって、ウォーターズのように、定番を求めるファンを否定したりはしない。そもそも、それを古いという言葉で形容しない。そこには、かれらミュージシャンと根本的に異なる発想がある。内村さんが自作の井戸茶碗を初めて世に問うたとき、それを新作と呼ぶことがはたして可能だったろうか。というのも、井戸茶碗は茶の湯の世界で16世紀からずっと存在してきて、内村さんの仕事は、そのエッセンスを現代の技法で表現しようとする試みの延長上にあるからだ。かりに井戸の新作があるとすれば、唐物全盛の当時の茶席で初めて使用された茶碗がそれにふさわしいことになろう。ごく長い時間軸上にある内村さんの仕事には、その意味で、短期的に新しいとか古いといういい方がそぐわない。同じ音楽に喩えるなら、それは、バッハやモーツアルトが演者を変えながら時代を越えて演奏されるのに似ている。(続く)