ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 隣の半島で朱子学を奉じた李氏朝鮮がほぼ500年間政権を維持したように、同じく朱子学を採用した徳川幕府もまたおよそ270年に及ばんとする長い治世を維持した。朱子学に基づいた政治によって、いずれも、厳格な身分制度を採用するとともに、為政者としての権威を高めたが、これらは、朱熹のいう「名分の遵守」と「愛敬の充実」を下敷きにして、礼の一翼を担う「根本」を実現している。また、王朝や幕府によって定められた儀礼や儀式は政務に優先し、王や将軍にとって、それらをつつがなく執り行うことが何よりたいせつな務めとされた。 戦のなくなった太平の世に、官僚化した武士階級に求められたのは、武勇よりもむしろこれらの儀式や儀礼についての知識だった。将軍の名の下にこれら「文飾」が制定され、当人とその配下の人びとによってそれが実行される。幕府は、このように、身分制度などの「根本」と儀礼などの「文飾」を行き渡らせることによって長期政権の基盤を築いた。李氏朝鮮ほどではないにしろ、朱子学の骨格を倣った点で、徳川幕府もまた礼式国家の亜種とみなしていい。ただ、王や儀礼を神聖視する礼のイデオロギーは、良くいえば安定、悪くいえば停滞の要因となる。毛沢東は、文化大革命を鼓舞するにあたって、守旧的な思想の象徴として孔子を批判した。共産主義という理論を現実に適用することを急ぐかれが孔子にあてがったのは、硬直的な封建制度を肯定する元凶としての役だった。かたや、共産主義と相容れるはずのない社会主義市場経済を謳う中国の現政権は、文化大革命の矛盾を敢えて直視することなく、あろうことか孔子や儒教をむしろ再評価している。統治する側にとって、「名分」や「愛敬」の徹底、そして「文飾」の充実は、政権の正統性を主張し「異端」を排除するのに都合よく働く。

 

 徳川幕府は、こうして、朱子学を政治に織り込むことに成功したが、茶の湯もまた、この時代の転換に大きな影響を受ける。利休は、珠光が端緒となった侘び数寄の茶、つまり差異の茶とともに殉死した。ところが、かれの子孫たちは、本来差異の極北を追求した自分たちの祖先を、それとは正反対の解釈によって崇拝の対象とした。かれらにとって、茶の湯は、それを通して利休が考えたであろうことや行ったであろうことをお手本として習得することにある。実際の利休が差異によって既存のパラダイムを否定したのとは反対に、その思想やスタイルから毒を取り除いて、誰もがそれを反復しやすく改変した。これに「準拠」してそれを繰り返し「実践」することが正しい茶の湯である。実に、そのような準拠と実践の同一性とともに、茶の湯は「茶道」となった。そのとき、利休は、先人のやり方に反旗を翻した革命的存在ではもはやなく、祭礼の方式を制定し、それを初めに実行したあの古の王たちに等しい。孔子が「 吾れは周に従わん。」と宣言したように、かれの子孫である歴代家元たちは、利休を神聖視し、これと同一化することに道の意味を見い出した。茶道の構造は、まさに孔子や朱熹が唱えた礼のそれときれいな相似形を描く。儒教の礼は、鬼神や祖先を祀ることで人々の仁徳を養い、ひいてはそれが社会全般に幸福をもたらす。いっぽう、茶道にあっては、利休を祖先として祀ることを通じて、亭主が客に対して茶を振る舞う行為を「文飾」化することで、もてなしのこころを育み、魂の交流をいっそう高い次元に引き上げる。お点前を学ぶことはまさに礼儀作法を身につけること。礼を実践すれば、必ず社会も人間関係も安定し充溢する。茶道とは、つまるところ、礼式の一ヴァリエーションにほかならない。

 

 茶室や路地、床のしつらえ、道具立て、お点前、所作など、茶道はそれにかかわるあらゆる要素を細部にいたるまで規定した。朱熹が祭礼にともなう祭器や服飾をこと細かく形式化したのと、それは同質である。つまり、茶道もまた、礼と同じ「フォルマリズム」に貫かれている。それが高麗茶碗の「フォルマリズム」に共鳴する。あるいは、 もともと祭器として誕生した高麗茶碗が、それらを朝鮮の祭礼と同等の扱いをするもうひとつの礼式の場に戻ってきたというほうが適切かもしれない。ひょっとすると、その成り立ちからして、その侘びた風情を先行する茶碗たちとの差異とみなされた立場よりも、実は、「茶道」という形式空間にあるほうがはるかにすわりがよかったのかもしれない。現在、それらは「井戸」や「斗々屋」、「割高台」、「呉器」、「伊羅保」など、多くの分類名とともに伝来しているが、それはまさにその「名分」化だといっていい。 差異の茶の時代には、「暦」や「三島」、「井戸」、ごく稀に「割高台」など一部例外はあるものの、高麗茶碗といえば「カウライ」 との呼称が主だった。ところが、幕府が鎖国を始めて安定期に入る寛永7年(1630)に「斗々屋」が会記に登場しはじめるのをきっかけに、名称の分節化が進む。高麗茶碗の「フォルマリズム」にそれを許容する余地があって、「名分」を重んじる礼式の茶道がこれをさらに推し進めた。それだけでも、高麗茶碗が茶道のやり方にいかにフィットしているかがわかろうものだ。朝鮮半島を故郷とするその器たちは、下剋上という時代を経て、ついにもうひとつの故郷を見つけた。 そして、それは、半島で過ごした第一の生涯や、異端の道具として生きた第二の生涯よりもよほど長く、しかも最も丁重に、あたかもお妃様になったシンデレラのように扱われるだろう。

 

 高麗茶碗の「フォルマリズム」は、差異として受容された意味と、同一性として本来あるべき意味を許容する。この両義性こそが、時代が変わってもなお、この茶碗が茶席の中心にいられる大きな理由にちがいない。おそらく、利休は井戸茶碗に差異としての意味をみていた。これに対して、秀吉はそこに同一性の意味しか読み取っていない。かれが名物井戸を二十碗ももったのは、察するに、好みの問題というだけでなく、その「フォルマリズム」の同一性に天下人としての感性が反応したからだった。井戸茶碗は、夏の禹王にとっての鼎がそうだったように、 「王」にこそふさわしい器なのだ。だが、そのいっぽうで、かれが毛嫌いした利休の黒茶碗もまた生き残る。本来差異として生まれたそれは、太平の同一性の時代になれば淘汰されねばならなかった。ところが、「茶道」の興りとともに利休が「王」になることで、それは延命する。なぜなら、礼式が支配する茶室という空間内では、「王」である利休によってつくられた黒茶碗もまた「王」の器なのだから。そして、ひとたびそうなれば、長次郎の手になる茶碗の形式は、鼎や爵がそうだったように、その後の礼式を支える道具の原型となる。樂家が代々それぞれの個性を打ち出しながらも、大枠から逸れることなく「形式」を継承する背景には、そんな事情がある。儒教をベースとする王の論理は、かくのごとく、構造的な「フォルマリズム」を誘引する。孔子は、周の礼式を支持する理由について、あまり多くを語らない。それは、奇しくも朱熹がこだわったように、その根拠を詮索するよりも、目の前の「形式」を明確にしてそれを実行することのほうが、仁に溢れる社会を実現するのにはるかに重要だったからである。茶碗もまた同じで、そこに根拠を求めても得られるものはあまりない。研ぎ澄まされた人間関係が試される茶室において、その存在を直に感じられるのは、やはり、その「フォルマリズム」をとおして以外にない。高麗茶碗は、その意味で、最も茶碗らしい茶碗といっていい。(終わり)

 

《主な参考文献》

 「井戸茶碗の謎」申翰均著(バジリコ株式会社)

「茶陶の美① 茶陶の創成」(淡交社)

「陶磁大系32 高麗茶碗」林家晴三(平凡社)

「茶の湯の茶碗 高麗茶碗」降矢哲男責任編集(淡交社)

「茶道具の世界2 高麗茶碗」小田榮一責任編集(同)

「同1 唐物茶碗」矢部良明責任編集(淡交社)

「同3和物茶碗」樂吉左衛門責任編集(淡交社)

「中国の古銅器」樋口隆康著(学生社)

「泉屋博古 中国古銅器編」(公益財団法人泉屋博古館)

「高麗青磁ーヒスイのきらめき」(大阪市立東洋陶磁美術館)

「論語」金谷治訳注(岩波文庫)

「儒教の歴史」小島毅著(山川出版社)

「「礼楽」文化 東アジアの教養」小島毅編(ぺりかん社)

「東アジアの儒教と礼」小島毅著(山川出版社)

「朱子家礼と東アジアの文化交渉」吾妻重二・朴元在編(汲古書院)

「朱子学入門」垣内景子著(ミネルヴァ書房)

「茶と美」柳宗悦著(講談社学術文庫)

「茶人豊臣秀吉」矢部良明(角川書店)

 

 これまで高麗茶碗の魅力について私見を綴って参りました。辛抱強くおつきあい頂きありがとうございました。各回で紹介させて頂いた作品の詳細は篤丸ショップ「ぐい呑み選 by 篤丸」で紹介させて頂いております。また、掲載作品以外の力作もアップしています。本文共々お楽しみ頂けましたら幸いです。