ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。


    レッド・ツェッペリンがステージで「whole lotta love(胸いっぱいの愛を)」を演奏する際、しばしば、50年代、60年代のR&BやR&Rのメドレーを途中に挿入した。エディ・コクラン、エルヴィス・プレスリー、レイ・チャールズ、マディ・ウォーター、リッキー・ネルソン、ジョン・リー・フッカー等々、おそらく、かれらが聴いて育った往年のスターたちのお馴染みのナンバーを次から次へと演奏する。ヴォーカルのロバート・プラントは、歌詞を空で覚えていて、そのレパートリーは数えきれないほどという。ジミー・ペイジをはじめとする他のメンバーたちも、それをアドリブで伴奏し、多くの場合、コンサートの最後に演奏されたこの名曲たちによるクライマックスは、ブルースやロックンロール好きの者の高揚感をさらに増幅させる。Zeppに興味をもったときにはすでにバンドは解散していたから、残念ながら、生のステージを体験することはできなかったが、映画やビデオなどに残されたその映像をみるだけでも、その熱気は十分に伝わってくる。四人が奏でるというより鳴り響かせる音の洪水は、まさに圧巻といっていい。

    ただ、このメドレー、原曲をほとんど感じさせない。Zeppお馴染みのナンバーの「whole lotta love」に連続して展開するので、うっかりすると、オリジナルの一部かと思い込んでしまうほど、それは、かれらの色に染まっている。現にナイーブな筆者などは、ずいぶん長い間それが往年の名曲のメドレーであることすら意識しなかった。確かに、プラントがプレスリーの声色を真似ようとしているのはわかる。ペイジがジョン・リー・フッカー風のサウンドを奏でようとする気配もないわけではない。おそらく、かれらは、誰もが愛してやまない名曲たちを聴衆と一緒になって楽しみたいという素朴な思いから演奏しているにちがいない。だから、そこに自分たちの色を敢えて持ち込もうなどとはけっして思っていない。むしろ、できるだけ原曲の雰囲気を再現できるよう、軽い気持ちで演奏、というよりむしろ楽しんでいるはずだ。かれらの気持ちからすれば、だからこそ、曲はもっと原曲に近く聴こえていい。ところが、現に鳴り響いてくるのは、そこからはるか遠く、Zeppの音以外の何ものでもない。

    杉本師の作品のなかで、唯一黄瀬戸だけは納得がいかないでいた。融通の効かない守旧派からすれば、黄瀬戸は、あくまで胴紐が基本で、そこから六角盃などいくつかのバリエーションがあってもいいし、あるいはその成り立ちからして古式に習った発展系が可能だろうとして、西岡さんの貴重な仕事に与してきたりもした。そんな立場の眼からすれば、師の黄瀬戸は、長次郎と織部と光悦を足して三で割ったような、およそ黄瀬戸の正統からはずれた形式で、とうてい受け入れられるものではなかった。で、お会いしてお話する機会を得たので、これ幸いと、胴紐の黄瀬戸をつくらない理由を尋ねてみた。すると、「あれは茶碗ではないから」というお答えが返ってきた。「あれは向付で茶碗ではありませんね。だからつくらないんです」。???。「黄瀬戸茶碗=胴紐向付」という命題を真と信じて疑わなかったが、それ自体は、何も必然的な真実というわけではなく、実は見立てという偶発的な虚構のうえに成立していることを当たり前に指摘する言葉だった。のみならず、桃山陶の写しをその仕事の中心のひとつとされているにもかかわらず、師の抱く茶碗の概念が桃山のそれとは必ずしも一致していないことに驚いた。

    黄瀬戸茶碗が向付の見立てであることを拒絶する杉本師の立場は、ある意味、桃山陶以上に桃山的である。師にとって、茶碗とは桃山陶の粋を集結した表現体であって、だからこそそれが何か別の形式の見立てであってはならないのだ。史実上たとえオリジナルの茶碗を欠いた黄瀬戸であっても、だから、そこには長次郎や織部や光悦がいなければならない。それは、桃山陶をモデルとしてひたすら作陶を展開してきた師がたどり着いた究極の境地といっていい。その黄瀬戸を観るにつけ、その向こうからツェッペリンの「whole lotta love」のあのメドレーが聴こえてくる気がしてならない。確かに、隠喩として最も遠いところにある両極端な事例ではあるが、桃山陶を極めたところから生じる黄瀬戸茶碗と、ZeppのメンバーのルーツともいえるR&Bの原曲たちと似ても似つかないメドレーは、オリジナルから遠く離れているという一点で結びつく。つまり、それらは、近づこうとするオリジナルとはまったく異なる表現となってしまうことで、逆説的にオリジナル性を帯びているのだ。写しやコピーを極めた結果として、強烈な個性が生まれる瞬間の実在を、それは証明している。個性は何も差異ばかりから生まれるわけではない。同一性をとことんまで追求しても立派な個性は誕生する。杉本師の黄瀬戸は、熱くそのことを訴えている。

※篤丸ショップに、上記の作品の他、杉本師の作品をいくつかアップしています。
    →「ぐい呑み選by篤丸」