ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 朝顔といえば、季語は秋に属す。おぼろげな記憶によれば、小学校の夏休みに朝顔を種から育てる課題があって、眠い目をこすりながらラジオ体操に行った帰りに、毎朝水をやりながら、一粒の種から生命が形となるのを観察したのを覚えている。土の表面から双葉が芽吹いて、本芽が出て、茎が太くなるにつれて蔓が伸び、次第に繁茂する三つ葉の間から花芽が現れ、やがて大きな花を咲かせる。朝だけみずみずしい花弁を開き、昼を過ぎる頃には萎んでしまうこの花の不思議を思いながら、すでに強い夏の朝の陽射しに映えるその鮮やかな青紫色が鮮明なイメージとして残っている。その意味で、朝顔は、筆者にとって、秋というよりもむしろ夏を想わせる花のひとつといっていい。本多さんのこの美しい朝顔盃は、思いもかけず嫁さんが購入してきた。今週末、双子のチビたちが通っている高校で文化祭があった。嫁さんもこの学校の卒業生で、その縁からPTAの役員をやっている。だいたいこういときには、PTA主催のバザーがあるもので、この高校も例外ではなく、役員が父兄や同窓生の縁を伝って各方面に出品の協力を求める。本多さんもこの学校の同窓生のひとりで、それを知っていた嫁さんが出品の協力を求めたところ、御本人は快諾してくださったそうだ。それが二年前のことで、今回本多さんの作品がバザーの展示場に並ぶのは二回目だという。そのなかで写真の作品を嫁さんがいたく気に入って、主催者側にいながら分けてもらったとのこと。帰ってきて「これ買っちゃった。いいやろ。」というので、いいねえ、と答えながら、バザーで出てたというからには、通常の値段とは違うだろうと思い、なんぼやったん?と尋ねると、この作家の通常の値段のおそらく半値ほどで分けて頂いたことがわかった。こりゃ、いい買い物をしたな、よかったな、といったら、本人は至極御満悦顔。

 

 嫁さんは家ではほとんど呑まないので、初呑みを筆者に譲ってくれた。観てるだけでもいいなあ、という本人を横に、この清楚な盃でいつもどおり焼酎をしこたま呑んだ。最初手に取ったとき、ふたりしてこれは少し歪んでいるのかと話したが、几帳面な本多さんがそんな作風になることはないだろうとよくよく観れば、何とこの盃、七角形である。これは珍しい、面白いな、と改めて二人でこの作品の希少な魅力に感じ入った。偶数と奇数を造形的にみた場合、前者は安定を、後者は逆に不安定を志向する。わかりやすい例を出せば、四本足の机と三本足の机とでは、機能性や安定感においてまったく印象が変わるだろう。物理的に、たとえば物を支えるにあたって、四本のほうが三本よりも、左右対称のほうが非対称よりも、はるかに頑丈さを保つからだ。昔あった三輪のバスやトラックが姿を消したのもやはり安全性において四輪のほうが優れていたからだろう。茶碗に限ってみても、四方盃や、多角形でも六角や八角はたまにみかけるが、奇数角となるとあまりみない。長次郎の有名な「ムキ栗」は四方で、しかもこれは別の有名な茶釜からのアイデアだといわれている。織部の沓茶碗もいっけん多角形とは無縁にみえるが、二方から力を加えて歪めている点では、偶数的な造形に数えられる。破格といわれる沓茶碗は、そのみかけに比して実は器としてしっかり機能する。ことほど左様に、偶数は器に安定をもたらす。本多さんのこの作品が一瞬歪んでみえたのは、七角形という奇数的な造形のせいだった。

 

 ただ、何事にも例外というか特殊事例はあるもので、高麗茶碗のなかには奇数を重要なファクターとする様式がまれにある。いわゆる金海茶碗には州浜形という丸い口縁を三方からたわめている形式があるほか、切高台でも切り口が一つや三つのものが伝来するとともに、御所丸のように五角形の高台をもつ茶碗もある。これらの様式のもとをたどれば、古代中国の青銅器にいたるが、それを代表する鼎(てい)とか爵(しゃく)は、独特の足をもつ器で、そのほとんどが三本だった。いうまでもなく、これらは古代の祭礼に用いられたいわば神のための器だ。当時の人びとが意識したかどうかは定かではないが、それを器として安定的な偶数ではなく敢えて不安定な奇数にしたのは、後者がいくら割り算をしても最後に一が残るという単一性(singularity)を神の特異性に重ねたからではなかったか。英語の「singular」という形容詞には、「単一な」という意味のほかに「並外れた」とか「特異な」という意味もある。それはまさに人知の及ばないところに存在する唯一無二の神を形容するといってもいい。七角形からなる本多さんのこの器の口縁をみていると、それぞれの辺を底辺、その対角にある点を頂点とした二等辺三角形が七つあって、それらの交点が再びその中に小さな七角形をつくり、再びそれが繰り返されていく様が想像できる。その幾何学的な無限の先に「singularity」があるとすれば、奇数の器に神性が宿っていると感じてもちっとも不思議ではない。

 

 残暑の季節といってもまだまだ暑さの収まらない今年の九月には、季語としては秋でありながら夏をイメージさせる朝顔が似つかわしい。本多さんのこの器は、正面に描かれた大輪の朝顔の向こうの内面にうっすらとその特徴的な三つ葉を描くことで、花が咲き乱れる風景をより立体的に浮かび上がらせる。その小粋な演出を肴に焼酎をぐびぐびやりながら、そんなとりとめもないことを考えた。嫁さんによれば、本多さんが協力してくださったその高校のバザーでは、これまで長年続いてきた書画骨董の募集をやめるそうだ。そこには、陶器などの工芸品のほか、南都のお寺のお坊さんたちの書も多く寄せられていたそう。食品や日用品に比べて簡単に売れないのはわかるが、だからといってやめてしまうのはいかにも惜しい。生徒たちの目に触れさせて審美眼を涵養するとか、父兄たちにしても鑑賞するだけで楽しんでいた方たちもあったかもしれない。チビたちが通う三年間で一度も行ったことのない筆者がいうのはいかにも僭越だが、嫁さんによれば、毎年そのコーナーを訪れてたくさん買っていく方がいたそうで、そんな方からすれば、筆者の思いなど足元にもおよばないにちがいない。最近個展や展覧会にめったに行けていないので、思いがけず嫁さんから書画骨董に触れる機会をもらって感謝である。どんな日常でもオアシスは必要だと、改めて痛感している。