萩大道井戸 吉野桃李(前編) | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。


 奈良のギャラリーで桃李さんの個展があるというので出かけたら、表のショーウィンドウにとても渋い井戸盃があって、おっ、これは!、と期待に胸を弾ませながらとびらを開けた。すると、御主人が「ぜひ観てもらいたい作品があるんです。」といって、当のその井戸盃をウィンドウから取り出してきた。何回も通っているだけあって、さすがに筆者の好みをよくわかって下さってるなと感心するいっぽう、何やかやいって、それが実は御主人の好みであることも、長年のつきあいでよくわかっている。御主人が一目散にみせて下さったその勢いからわかるように、それは、ガラス越しで観る以上に真に迫ってみえた。御主人によれば、萩焼の代名詞ともいえる大道土を単味で使っているという。ざんぐりとした粗い土味が魅力である代わりに、扱いが難しいので通常は他の土を混ぜて使う。これを単味で用いるとなると技術的な難易度がかなり高くなる。確かに、それはそれとして凄いことなのかもしれないが、それより何よりこの作品のみせる作行きは、まさに伝来する井戸茶碗たちのそれと見紛うばかり。
 
 真偽の程は定かでないが、現在伝わっている井戸茶碗の何割かは実は萩で焼かれたという話がある。他の高麗茶碗に比べて井戸茶碗の伝世品は数が多いし、何より萩茶碗の風貌が韓半島製の本物(?)の井戸茶碗と遜色がないことから、ほんまかいなと思いつつ、そういわれればそうなのかもしれないと納得してしまいそうな話ではある。桃李さんのこの井戸を観ていると、まさにさもありなんと思うばかり。だが、そもそもなぜ萩焼はそれほどに高麗物との親和性が高いのか。一般的には、文禄慶長の役で毛利輝元が朝鮮から李勺光と李敬兄弟を連れ帰って萩で開窯したのがその始まりと伝えられる。窯の始まりが朝鮮の陶工によるのだから似ているのは当たり前というわけだ。しかし、同じく朝鮮の陶工を祖とする御用窯は他にもある。だからといって、それらが皆高麗物との親和性を萩ほどの強度で備えているかというとそうではない。薩摩も高取も、根っこは共有しつつもそこから離れて、国風化ともいうべきそれぞれの様式を発展させている。それに対して、萩が萩になったのにはそれなりの理由があるにちがいない。
 
 筆者はその大きな理由として毛利秀元の存在があるとにらんでいる。茶道史では古田織部の門人としてときおり名前をみかけるが、何しろかれの弟子は数えきれないほどいるので、かれらの茶人としての実像がつぶさに伝わるわけではない。秀元が茶道史に登場する最も有名なシーンが織部のあの「ヘウゲモノ」茶会。博多の豪商神屋宗湛が織部の用いた茶碗を「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウゲモノ也」とその日記に記したあの茶会に、秀元も出席していた。織部渾身の力作のデビューにリアルタイムで臨席したのだから、弟子のなかでも熱心でとりわけ近しい存在であったことが伺われる。秀元は、その姓が示すようにもちろん毛利家の一員で、毛利家を中国地方の覇者にまで導いた毛利元就の孫に当たる。関ケ原の戦いで西軍の総大将となった輝元も、同じく元就の直系の孫で、だから秀元とはいとこ関係になる。だが、同じ孫でも輝元の父である隆元と秀元の父である元清はそれぞれ母が異なり、隆元の母は元就の正妻で、元清は側室の子として生まれた。元就がその子供たちに語ったという「三本の矢」の逸話は、実に正妻の子である隆元、元春、隆景三兄弟に向けられたもので、その他大勢いた側室の子どもたちは蚊帳の外にある。実際、元就は正妻の子と側室の子の扱いには厳格で、主家を守る使命は、あくまで隆元ら三人の息子たちにゆだねられた。残りの子どもたちは、だから、主家というよりも家臣と同等、もしくはそれ以下の立場でこれを支える役目を負った。
 
 そんな事情から、毛利家の正嫡子である輝元と側室の子の子である秀元では、同じいとこといえども、家内の地位に圧倒的な格差があった。ところが、早死にした父隆元の跡を継いで若くして当主の座についた輝元は、初めのうちはまだ健在だった祖父元就の、元就亡き後は叔父に当たる元春と隆景の後見の下でその役割を果たしていたが、いよいよ自分が中心に活躍しはじめる壮年期になっても子宝に恵まれない。そこで、その後継として秀元を養子に迎えた。側室の系譜にある秀元に白羽の矢が立ったのは、祖父元就による系統の厳格な峻別と矛盾するようにみえる。正室の子である毛利三兄弟の隆景には子どもはいなかったが元春には複数の息子がいたから、側室筋ではなく主家筋から養子を取るとういうのがより自然なはず。そうはしないで敢えて秀元を跡取りとしたのは、一門のなかでも本人がよほど優秀だったか、輝元との関係がよほど良好だっだからか。その後の激動の時代を毛利家が生き抜いていくにあたって、秀元が相応の活躍をしていることからも、あるいは輝元が晩年にいたるまで秀元に一定の配慮を欠かさなかったことからしても、いずれもそれを肯定するに十分である。(続く)