聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/29 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 利休が当然自分に命乞いをしてくるだろうと思い込んでいただけに、秀吉は、その頑なな態度を前にして、さらに怒りを増幅させる。これによって、利休にいよいよ切腹が命じられる。ただ、命令した秀吉は、はたして、利休との闘争にそれで勝利したといえるだろうか。殺したほうが勝ちで殺されたほうが負けという動物的な論理でいえばそのとおりにちがいない。しかし、ことは「承認」をめぐる闘いである。ヘーゲルが「主と奴」のスタティックな関係の脆弱性を指摘したたように、「主」が得られる「承認」は、自分が「承認」していない「奴」からのそれでしかない。したがって、「主」は真正な意味での「承認」を得られない。かりに得られたとしても、それは、虚構のうえに成立した「承認」にすぎない。「主と奴」の弁証法を知っている利休は、当然、このことを知っている。裏を返せば、それを知っているからこそ、秀吉が守ろうとする「主と奴」の関係性の危うさを図らずも嫌みや増長で牽制してきた。しかも、その矛盾を知っていれば、たとえ「奴」であったとしても、「主」を「承認」する者がいなければ、「主」はけっして「主」であり得ないことも知っている。利休は、だから、秀吉が望む「奴」であることを自ら放棄した。つまり、死を受け入れることで、自分自身を永遠に秀吉を「承認」できない存在にした。秀吉との動物的な戦いに敗北する代わりに、「承認」のための闘争の前提である関係性そのものを御破算にしてしまった。そのせいで、秀吉は、利休の「承認」を得ることかなわず、したがって当然、永遠にかれの「主」ともなり得ない。広い天の下で独り利休だけがかれの「奴」であることを拒んでいる。これこそが、実は、あまねく「主」をスタティックに維持したい秀吉が最も避けたい事態だった。改めて、これで秀吉は勝利したといえるだろうか。

 

 感情に任せて利休を切腹させたその後、秀吉は、これを後悔するような言動をとっている。朝鮮出兵の際に肥前名護屋の本陣から大政所に送った手紙のなかで「利休流のお茶でご飯を頂いているからご安心を。」(本節以下引用は桑田忠親『千利休』)と書いたり、博多の豪商、神屋宗湛の屋敷で行われた茶会で、床のしつらえが気に入らず、「床をしかえよ。このような指南は宗易も宗及もいっては聞かせまいぞ。」といったり、京都伏見城の普請について「利休好みに申しつけたい」と希望したり、自ら利休ロスの感情を隠そうとしていない。それは、もちろん、戦友としての旧交や茶頭としてのセンスをなお慕う気持ちの表れだろうが、それよりも何よりも、誰にもまして「承認」してもらいたかった相手を失ったことからくる喪失感にほかならなかった。

 

 この喪失感が秀吉を再び闘争へと駆り立てる。けっして得られない「承認」の代わりを求めて、かれは新たな「奴」を今度は大陸に求める。そして、かつての主君である信長がそうだったように、結局、命がけの闘争を死ぬまでやめなかった。我が闘争の記憶に、失われた「奴」という汚点を残してしまった秀吉には、ゼロ地点をなす真正な「主」として戦い続けるか、さもなくば死ぬか、いずれかの道しか残されていなかった。だが、皮肉なことに、戦い続けて、かりに朝鮮出兵で勝利していたとしても、おそらく、その喪失感を埋めることはできなかった。利休による「承認」はただ利休にしか求められない。秀吉は最後まで「主と奴」のスタティックな関係性を「承認」させたかったが、利休は、最期までそれを拒絶した。あるいは、かりに利休の地殻変動が始まる前ならば、秀吉は勝利していたかもしれない。その時点なら、秀吉と同様、利休はまだ「主と奴」の関係性をナイーヴに信じていた。「主」であることに積極的な価値をみていた。だから、かれにとって信長はまぶしかった。だが、現実には、利休は、秀吉が天下人への階梯を歩み始めた頃には、すでに、「主と奴」の関係性がそれほど単純ではないことを、つまり、それがいとも簡単に転倒され得ることを知っていた。まぶしくない「主」を「承認」する「奴」はいない。利休の切腹という事件は、「主と奴」のスタティックな関係性とその弁証法をめぐる闘争というべきだ。その意味では、本能寺の変により利休が覚醒した時点で、すでに闘争のはじまりとその結末はみえていたといっていい。

 

 聖なる利休のほうから遡行していくと、秀吉との確執を、政治と芸術の対立に見立てたり、茶のスタイルの相違から発するとしたり、ものによっては、茶の道に殉教したためと解釈する向きがしばしばある。これこそ「表象」がつくりあげた仮象にほかならない。「感覚的存在」であることをやめた利休はもう話さない。その沈黙が残された者たちの思い出として過去形で蘇る。そこにはまず前面に沈黙して語らない利休がいるから、光、動、俗の秀吉に対して、影、静、聖の利休という対照関係が生まれる。まさに「復活」のメカニズムがなさしめるところである。だが、「表象」としての福音書ではなく、茶会記や書簡など限られた直接的な資料からみえてくるのは、けっして聖なる利休などではなく、野心に燃えて、負けず嫌いな、そしてときに増長した俗人利休である。長次郎の黒茶碗がいっけん沈黙や闇を想わせるようでいて実は雑多な色彩からなっているように、実際の利休は、もっとざわざわしてやかましい。かれの最期は、だから、後世が期待するような美しい物語にはけっして収まらない。むしろ、甲冑を身にまとうような大男にこそふさわしい、もっと生々しく豪胆な性質を帯びている。「人生七十 力囲希咄 吾這宝剣 祖仏共殺」、「提(ひっさ)ぐる我が得具足の一つ太刀 今此の時ぞ天に抛(なげう)つ」。死の三日前に書かれたというかれの辞世の偈は、この四言四句の詩一篇と和歌一首からなる。多くの専門家はこの遺偈を解読しようと試みてその難解さを指摘する。確かに、理不尽な死を宣告された悲劇の主人公として、純粋に茶の道を貫徹しようとした反骨のひととして、そこに、汲めども尽きせぬメッセージを読み取ろうとすれば、それは難しい。だが、「主と奴」の闘争を積み重ねてきた人物が発した言葉として受けとめたらどうか。「七十年生きて、ついに我が宝ともいえる剣で祖先も仏法も殺してやろう」、「武器として携えてきた太刀を今こそ天に向かって投げ放とう」という意味以外に解釈は必要だろうか。この偈のなかに芸術とか茶の心とか殉教とかイメージできる言葉があるだろうか。「祖仏」も「天」も、かれがギラギラした人生をかけて戦ってきた相手、つまり、信長や秀吉に代表される「主」たちであり、ともすれば茶の湯を凡庸化させようとするコード、制度ではなかったか。ならば、遺偈は、あたかも、長いあいだ戦い抜いてきた武士(もののふ)が、死、つまり自分を終わらせることによって、その戦いに決着をつけようとする宣言のようにむしろ聞こえはしまいか。少なくとも世を達観した聖人が残す含蓄豊かな言葉ではない。利休は最期までギラギラしていた。天下人に屈服するよりも、たとえ死んでもチキンレースに勝つことに執着するほどの負けず嫌いだった。だから、その死に様もまた、けっして静謐でも穏やかでもなく、むしろ熱量の高い激しさに貫かれていた。(続く)

 

西林学「珠光青磁輪花」

 

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂く作品は本日から「ぐい呑み選by篤丸」にてアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。