聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/28 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

賜死、そしてふたつの死

 天正19年(1591)、ついに、秀吉のその堪忍袋の緒が切れる。大徳寺の木像の件がふとどきだという罪状で、急遽堺の自邸に蟄居謹慎を命じられる。秀吉の怒りの程は、早速その木像を山門から引きずり降ろして聚楽の戻橋ではりつけにしたことに表れている。二週間程堺で過ごした後、再び上京を促され、切腹の申し渡しがある。2月28日、上杉景勝の軍勢三千が包囲する京の屋敷にて切腹。その首級は戻橋にはりつけにされている木像の我が足下に晒される。数え年でちょうど七十歳だった。この利休自刃については、再び天正19年というクロノロジーが重要になる。というのも、ちょうどその前年に、秀吉は、小田原の北条氏を成敗し、本能寺の変を起点にして一心に目がけてきた天下統一を果たしていたからだ。ようやく名実ともに天下人になった秀吉は、真の意味での「主」となった。いまや広い天の下でかれの「奴」でない人間はいない。秀吉の「主と奴」をめぐる命がけの闘争はここにいったん完了する。そして、このことが、秀吉と利休のあいだで微妙な均衡を保っていた緊張関係に影を落とした。

 

 これまで述べてきたように、秀吉にとって、利休は、交渉事のベストパートナーであり、日本一の茶頭であった。本能寺の変以降急速に関係は深まって、最後には衆目の一致するところの主君と側近の良好な関係を築いた。同じ野心家同士、ともに天下を目指して歩んできた戦友だ。秀吉が出世を重ねるにつれて、公式の身分差は広がっていくが、君臣のけじめがあるとはいえ、気の合うふたりは、宗麟の証言からもわかるように、それに型どおりに従うことなく、阿吽の呼吸で外交や内政に携わってきたにちがいない。互いにライバル意識はあったものの、いっぽうは主君であることの余裕から、いっぽうは茶頭であることの慎みから、柔軟な「主と奴」の関係を維持してきたし、対外的にもちつもたれつの関係が必要だったからこそ、お互いにそこから少々逸脱したところで許し合うこともできた。ところが、秀吉が名実ともに天下人になると事態は大きく転換する。命がけの闘争に勝利する者は「主」としてのスタティックな地位を確立する。かれにはもはやかれ以上の存在はない。もう戦う必要がない以上、ヘーゲルがいうように、「主」には命がけの闘争の記憶にすがって「主」でい続けるか、あるいは死ぬしか道は残されていない。秀吉は、自分が完成したこの「主と奴」の関係性を維持しない限り、「主」でいることができない。他にも大勢いるかりそめの「主」のときにはそれほど執着しなかったものの、いざ自分が唯一の「主」となると、その根拠となる関係性そのものを絶対視するようになる。なぜなら、あらゆる関係性においてゼロ地点をなす「主」は、関係性が機能しているあいだはその中心にあるが、それがなくなればゼロ(無)に帰してしまう宿命にあるからだ。

 

 秀吉は天下人になった時点で本能的にこのことを察知した。すると、利休の言行にみられるこの関係性からの逸脱が気になって仕方がない。自分に異見したり、茶席で面目をつぶすようなことをされたり、多少気分を害したことがあったとしても、それまで旧知の仲だからと何とも思っていなかったことが、かえって目に余るようになる。いまや唯一の「主」となった秀吉にとって、古くからの戦友との関係よりも、「主と奴」の関係性を守るほうがよほど大切になる。「主」であり続けねばならない秀吉にとって、それは、いかなる侵犯も受けてはならない聖域に等しい。これに対して、利休はといえば、本能寺の変のときに「主」である信長がいとも簡単に殺害されたことを経験して、この関係に潜む倒錯性をすでに知っている。あれほどの畏怖をもって堺を、天下を支配せんとした信長が「奴」の「労働」の前にたやすく倒れた。スタティックな「主と奴」の関係などあり得ない。そんなものはまやかしにすぎない。それはつねに弁証法的に転倒させられる。そう確信する利休だからこそ、ナイーヴにそれを信奉する秀吉を前にすると、居心地の悪い違和感を覚えたのではないか。それが天下人に対する嫌みや増長として表面化したのではないか。そして、それはすべて茶席から始まっている。利休が「師」として自分を表現できる唯一の場である茶席から。しかし、秀吉はこれに敏感に反応する。名実ともに「主」となっていまや研ぎ澄まされたかれの嗅覚は、「師と弟子」の関係性には「主と奴」のそれが潜在していることをかぎとった。「主」は自分だけでいい、いや自分しかいないはずだ。「師」という仮面をつけて自分の前で「主」のように振舞う利休を、とうとう秀吉は許せなかった。もはや戦う必要のないはずの天下人が再び命がけの闘争の相手をみつけてしまう。


 とはいえ、新たな闘争が「承認」を得るためになされる以上、秀吉は、利休に切腹を命じながらも、自分の前にひれ伏して謝罪すれば満足していたにちがいない。ときおり「主」のように振舞う生意気な利休に、「主」は自分しかいないことを「承認」させれば、それで済む話だった。しかし、利休は申し開きをしない。『千利休由緒書』によれば、前田利家から大政所(秀吉の母)や北政所(秀吉の正妻)にとりなしてもらって赦しを請うようにと助言されたが、利休は、「天下に名を顕し候我等が、命おしきとて御女中方を頼み候ては無念に候。たとひ御誅伐に逢ひ候とても、是非無く候」と拒否したという。木像事件に連座して同じく罪に問われていた大徳寺の古渓宗陳たちが大政所のとりなしで赦免されたところをみると、秀吉は本気で利休の死を望んでいたわけではなかった。それでも利休は頭を下げない。「御女中方を頼」むのが嫌というのは単なる口実にすぎない。長年のつきあいで秀吉の性格を熟知していた利休は、おそらく、秀吉が本気でないということもわかっていた。それでも助命嘆願しないのは、この天下人がこの一件によって「承認」をめぐる命がけの闘争をしかけてきたことを察知したからだ。どうせ自分にひれ伏して命乞いするにちがいない、と。対して、利休はこれを真正面から受けとめる。秀吉が「主と奴」の関係性を絶対視しなければならない真の「主」となってしまった以上、今ここでひれ伏しても同じことはまた繰り返されるにちがいない。というのも、茶席における「師」を発端として嫌みや増長が自然体となってしまったように、自分のなかの「怪物」は、時々に顔を覗かせ、その都度それを否定し続けるだろうから。であるならば、いっそここでこの闘争に命がけで臨んでみるにしくはない。秀吉に劣らず負けず嫌いで誇り高い利休はそう考える。勝算はある。要は、命がけで「主」であることも「奴」であることも否定すればいい。(続く)

 

柳下季器「井戸」

 

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。