聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/17 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

 利休の地殻変動の痕跡が記録として最初に確認できるのは、天正8年(1580)の「ハタノソリタル茶碗」の使用である。だが、実際には、それは、これまでみてきたように、堺に信長の手がのびはじめた永録11年(1568)から少しずつ、漸進的に起こったことが推定される。それは、ひと言でいうなら、野心家として抜け目なく振舞い出世を遂げていくなかで、その過程だけでなく、それに没頭する自分自身に疑念を抱くことから始まった。疑いのまなざしは、自らが仕える主人に、そしてその取り巻きに、さらには同僚にまで向けられた。その結果、下剋上の寵児としてナイーヴに「主」であることに憧れていた利休は、自分やその周辺で「奴」=「下」が「主」=「上」に克つもうひとつの「下剋上」があることに気づいてしまった。「ハタノソリタル茶碗」の使用は、その疑念が生じてはきたもののいまだ明確なかたちとなって把握できないもどかしさの発露といっていい。似たような試みは、記録に残っていないだけで、その前後に他にもあっただろう。そして、天正10年(1582)の本能寺の変によって、その疑念が確信に変わる。「主と奴」の弁証法を自ら体験することで、徐々に疑う野心家になっていった利休は、この事件を機に、自分がこれまで信じてきた秩序や価値観がいとも簡単に崩壊し得ることや、あれほど強固にみえたそれらの根拠が思いのほか脆弱であることに気づいてしまった。これが既存のコード(規範、法典)を疑うというわかりにくい利休の素地をつくった。テスト氏ならぬ「怪物」はここに誕生する。茶室や茶碗やその他多くの局面において、晩年の過激で難解な実験が展開されるのは、まさにこの事件の後からである。それまでにかれは12年かけている。ヴァレリーの「ジェノヴァの夜」はたった一晩の出来事だったが、すでに多くの経験を重ね、地位と名誉という分厚い鎧をつけた人物の地殻変動には、より大きな外的な圧力とより長い時間が必要だった。それはそうだろう、本能寺の変のときに、利休はすでに齢六十である。良くも悪くも、地殻変動どころか、それまでの人生にあぐらをかいて微動だにしない年齢だ。

 

 永録11(1568)年の信長による堺攻略、天正8年(1580)の利休による「ハタノソリタル茶碗」の使用、そして天正10年(1582)の本能寺の変、情報はきわめて限定されているが、この12年間のクロノロジーは、利休の地殻変動を考察するうえでとりわけ重要なメッセージを発している。一般に利休の生涯は秀吉という対照的な存在とセットで語られることが多い。秀吉との接点が多い晩年に伝記的に派手目の出来事が多くて、何より切腹を申しつけた張本人であることから、勢い利休といえば秀吉が枕詞のようになっている。それは、このふたりの茶の湯のスタイルの相違や君臣間の軋轢を取り沙汰するのに格好の口実を提供してもいる。しかし、それらが利休の地殻変動を震源としていると考えるならば、秀吉は利休にとってあくまで二次的な存在にすぎない。そのクロノロジーが物語っているように、秀吉はその原因ではなくそのきっかけですらない。秀吉が天下人になって再び利休の前に現れたときには、すでに利休のなかで地層は動きはじめていた。かりにこの地殻変動が茶の湯表現における前人未到の実験に通じているとすれば、この天下人は、かれに対峙する存在ではなく、むしろ「シテ」の仕事の完成を手伝う「ワキ」の役割を果たしている。覚醒する利休にとって、秀吉の存在は信長ほど大きくない。

 

「主と奴」、ふたつのヴァリエーション

 ところで、茶の湯には、実に、「主と奴」の関係性が呼び名を替えて、しかもより本質的なところで、ふたつ潜在している。ひとつは、茶の湯が成立するための基礎的な条件である「客と亭主」の関係性。もうひとつは、茶の湯の精神と技術を継承するためになくてはならない「師と弟子」の関係性。呼称は取り繕われているものの、ヘーゲル的視点から突き詰めていけば、いずれも、「主と奴」の数多あるヴァリエーションのひとつといっていい。これまでみてきたように、利休は、ギラギラした野心家として俗世間で出世を重ねていく過程で、「主と奴」の脆弱で倒錯的な関係性を発見した。それは、かれが堺という特殊な町に育ったことや、宗久や信長との数奇な出会いがあったればこそ可能だった。だが、もうひとつ忘れてならないのは、かれが熱心に従事してきた茶の湯のなかにもまた、その変形や応用があることだ。日常的な実践として、「客と亭主」や「師と弟子」という茶の湯に欠くことのできない関係性に接してきたからこそ、かれは、そこに内在する「主と奴」の関係性によりいっそう敏感になることができた。茶を点てるというパフォーマンスにもその学習にも、必ず自己と他者という二項対立的な関係性があって、しかもそのあいだでの「承認」や「労働」が、表現上あるいは教育上きわめて重要な契機となっている。波乱に富んだ出世体験だけでなく、茶の湯という特異な表現形式もまた、利休の地殻変動を呼び起こすもうひとつの素地をなした。俗人利休の覚醒は、おそらく、かれが茶人であることを離れては実現していない。

 

    茶の湯は、「亭主」が「客」のために一服の茶を点てることから始まる。それは、いうまでもなく、ひとりだけでは成立しない。自分ひとりだけでどれほど美味しいお茶を点てたところで、それを賞味する相手がいなければ、これを茶の湯と呼ぶことはできない。「亭主」が「客」と構成するこの複数性は、茶の湯を成立させるための基礎的な単位で、他の芸術にはみることができない。というのも、表現の多くは単数性を基本としているからで、画家も、作曲家も、詩人もひとりで作品を創造する。どんな表現者もひとりでそれをなし、不特定多数の人びとにその観賞を委ねる。所謂芸術という分野に限らずとも、たとえば、華道においても、花を生けるのはひとりの生け手によっていて、これを不特定多数の人びとが観賞する。あるいは、能楽においても、能を演じるのは複数の役者かもしれないが、観賞者が舞台に上がることはない。能はあくまで能役者による単数的な表現である。いずれのパフォーマンスもひとりの人間により実行されるのに対して、茶の湯の場合、そこに「客」という観賞者が加わる。能楽にたとえるなら、客席で舞台を楽しんでいるはずの観客が舞台に上がって演者のひとりになるということだ。しかも、かれは、他の能役者のように物語のなかの何かの役ではなく、その物語を観賞する観客であることを演じる。「亭主」という演者と「客」という観賞者は、茶室という空間でひとつの舞台を表現し、そのとき、それぞれが互いにとって演者であり観賞者ともなる。(続く)


杉本 玄覚 貞光「伊羅保皮鯨」


    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。