聖利休~主(あるじ)と奴(しもべ)/16 | ぐい呑み考 by 篤丸

ぐい呑み考 by 篤丸

茶道の世界では、茶碗が茶会全体を象徴するマイクロコスモスとされます。だとすれば、ぐい呑みはナノコスモス。このような視線に耐える酒器と作家を紹介します。

    ヘーゲルの考えを応用すると、「労働」のできる「奴」ほど世界を動かす力をもつ。これを利休のおかれた状況に適用すれば、「主」である信長への貢献度が高い「労働」ほど評価され、より大きな力をもつことができる。宗久のユニットが信長政権で力をもったのは、かれらの「労働」が他ではなし得ない稀少性を備えていたからだ。秀吉たち家臣もまた、戦という「労働」で信長に仕えるが、程度の差はあるにしろ、戦の担い手には互換性がある。信長は、天下統一のための戦で、各方面に家臣を当てたが、もちろんそれぞれの経験や適性に基づいて派遣していただろうとはいえ、極端にいえば、北国攻めの柴田勝家と中国攻めの羽柴秀吉の担務を入れ換えたところで、戦況が劇的に変わったわけではないだろう。しかし、宗久を中心とするユニットがもたらす経済力、軍事力、文化力には、量の面においても、質の面においても、互換性がない。たとえば、堺衆の用意する大量の鉄砲と弾薬がなければ、長篠の戦いでの勝利はなかっただろう。堺という国際貿易都市を背景に、かれらは、豊富で多彩な物資、莫大な資金、大量の武器弾薬、貴重な茶の湯の技術と資材を供給した。それは、唯一かれらにしかなし得ない「労働」であり、けっして他と換えがきくような性質のものではなかった。しかも、信長が「天下布武」を実現するにはどれも必要不可欠となれば、ある意味で、かれらが他の家臣たちより重用されるのも当然である。命がけの闘争を離れてしまえば、「無為徒食」の「主」よりも、「労働」に長けた「奴」のほうがむしろ力をもつ。

 

    野心家利休は、永録11年(1568)の堺の挫折からずっと、不本意にも「奴」であることに甘んじねばならなかった。ところが、同じ野心家の宗久による目先の利いた処世術に与したおかげで、それからさほど時をおかずして、「奴」でありながらもあたかも「主」であるかのような立場につくことができた。しかも、それは、堺の一町人からすれば、はるか雲の上の出来事であるかのような立身出世である。しかし、のぼりつめていけばいくほど、人生の勝者である「主」のいる世界が自分の想い描いてきたそれとは違うと感じる。「奴」でありながら「主」のように振る舞う。この逆説を自ら体験することで、利休は、もちろんそれとは知らずに、ヘーゲルのいう「主と奴」の弁証法に気づいたのではなかったか。たとえ命がけの闘争に負けても「労働」が我が身を救ってくれること、「労働」にさらに励むことによって立身出世は実現すること、命がけの闘争以外のところでは「労働」がその人間を価値づける唯一の尺度であること。そして、それと同時に、自分たち堺ユニットの貢献なしに信長の「天下布武」が実現しないことがわかってくるにつれ、「主」であることの一抹の空しさに心馳せることもあったかもしれない。「主」は、「主」であるからといってけっして全能ではなく、むしろ、「主」であるからこそ、「手を触れずに放置する所与にかえって縛られて」身動きがとれない。「奴」であることしか知らなければ、そんなことに思いも及ばなかっただろうが、利休は、かりそめのかりそめながら「主」であることも知っている。自治都市の平野を「奴」にするために町年寄の勘兵衛に細やかな心遣いを忘れない利休ならば、「奴」の「労働」によらなければ自らの意思を実現できない「主」の不自由さに無関心ではいられなかった。人並み以上の野心家で抜け目のない利休だからこそ、そんな考えに及んでもけっして不思議でない。

 

    ならば、利休のギラギラした野心が得ようとしていたのはいったい何だったのか。商売においても、茶の湯においても、何人に対しても、つねに「主」であることを欲していたのではなかったか。たとえ「奴」になったとしても、少しでも「主」に近くありたいと願っていたのではなかったか。だからこそ、宗久という勝ち馬に乗ったのではなかったか。つまるところ、自分が欲してやまないこの「主」であることとははたして何を意味するのか。フランス革命の理念を引っ提げてナポレオン・ボナパルトがドイツに侵攻してきたとき、『精神現象学』を執筆中のヘーゲルは、馬上の皇帝に「世界精神」をみた。利休もまた、堺を恫喝した信長に「死の畏怖」を感じながらも、命がけの戦いに次々と勝利するかれのなかに得体の知れない可能性をみていたのではなかったか。実際、そのおかげで自らの未来もどんどん拓かれていった。だが、一歩引いて省察すれば、それももともとは自分の「労働」があってこその未来である。命がけの闘争が終わってしまえば、「主」たる信長は、「労働」という具体的な力をもたない。しかも、相手をつねに屈服させずにはいられないかれは、実は、屈服した相手の「承認」、つまり自分が「承認」していない「奴」の「承認」しか得られない虚構上の「主」であるにすぎない。「奴」の「労働」のおかげで存在できる信長は、その虚構の「主」の座を守るために、それまでなしてきた命がけの闘争の記憶にすがりながら、虚構の「承認」を求めて、さらに次々と新たな闘争に向かっていく。「天下布武」とは、所詮、かれがずっと「主」でい続けることの口実にすぎない。なぜなら、「主」が「主」でいるためには、永遠に命がけの闘争を続け、それに勝利し続けねばならないからだ。セントヘレナ島に幽閉されるまで戦い続けたナポレオンがそうだったように、信長もまた、命尽きるまで戦場を探さなければならない宿命にあった。「主」には、戦い続けるか、死ぬか、どちらかの道しか残されていない。こうして「主と奴」に潜在する倒錯的な関係性が露呈したとき、野心家の利休が半世紀かけて積み重ねてきたギラギラした経験の地層がきしみはじめる。

 

    このきしみは、信長の下で利休の地位が上がっていくにつれて大きくなっていっただろう。やがて、それはきしみから小さな揺れとなって、その振幅は次第に激しくなっていっただろう。そして、天正10年(1582)に起きた本能寺の変は、ついに、その揺れが単なる心の動揺ではなく明らかな地殻変動のはじまりであることを利休に告げた。圧倒的な存在感で「主」として君臨した信長が、自身の命令により秀吉の中国攻めの加勢にいくはずの明智光秀の軍にいとも簡単に滅ぼされてしまう。「主」が「奴」に強制する「労働」は、「主」が生きていくための「奴」による奉仕である。光秀の出陣はまさに信長のための「労働」だった。ところが、それが信長を生かすほうではなく、殺すほうに向いた。「主」の命令として「奴」に強制した「労働」が「主」を殺してしまった。この事件は、二重の意味で悲劇的である。ひとつは、英雄信長が殺されたという直接的な意味で、もうひとつは、「主」が強制する「労働」が「主」を否定できるほど万能であると同時に残酷であるという意味で。秀吉の援軍に向かう光秀の軍勢は確かに「労働」に従事していた。だが、光秀が「敵は本能寺にあり」と京都にきびすを返した瞬間から、その目的が「奴」自ら「主」になるための「命がけの闘争」になった。そして、かれは首尾よく信長を討ち取り、「主」となる資格を得た。だが、それも十日あまりのあいだで、まもなく中国攻めから引き揚げてきた秀吉軍に敗退する。これもまた「命がけの闘争」を経て、秀吉という新しい「主」が誕生した。ユニットメンバーの津田宗及は、自身の茶会記にその目まぐるしい推移を淡々と記録しているが、このとき利休がどこにいてどうしていたのか定かではない。この歴史的大事件を利休はどう眺めていたか。そこには、少なくとも、「主と奴」のスタティックな関係性をナイーヴに信奉する利休はもういない。それとは裏返しの弁証法に勘づいてしまったかれにとって、改めて「主」となって現れる秀吉に、きっとあの信長ほどの眩しさは感じられなかったにちがいない。(続く)


豊増一雄「染付」

    今年生誕500年を迎えた利休について私見を述べるにあたって、13人の作家の皆さんに利休をイメージさせる作品で御協力いただきました。連載はひと月にわたりますが、紹介させて頂いた作品は「ぐい呑み選by篤丸」にて、11月19日からアップいたします。今に息づく利休の造形をお楽しみ頂ければ幸いです。