
1969年、街の浄化を促す警察は性転換した男娼たちの処置に苦慮していた。法律では女性でない男性は罰することはできないのだ。検察は医療用麻薬を横流していた赤城医師を健康な男子を生殖が出来ないように性転換させたとして優生保護法を理由に起訴した。
弁護士の狩野は、赤城医師を弁護するが優生保護法に違反したとは思えないという赤木医師の主張を立証するために性転換した者たちを証人として立証させる。
サチは普通に喫茶店のウェイトレスとして、女性として恋人と生活をしていた。恋人もサチを元男性だと知っている。狩野の証人としての出廷の依頼も生活を壊す不安から断る。
ゲイボーイ時代の元同僚だったアー子が、証人として出廷して、検察弁護側から双方からの発言に傷つき、それが原因で亡くなったことで、証人として出廷する。しかしその代償は大きく、サチを苦しめることになる・・・
今やトランスジェンダーは社会的に認知されているし、性転換手術は国内でもなされている。最後のクレジットで国内の手術の再開は1998年と記されていた。およそ30年くらいの時間を要したということだ。当時の人々の認識はあの検事と同じくらいであったろう。
「ともだちの歌」の中村中が出演していた。中村中が紅白歌合戦に出演していたときはまだ白組で出演していたはずだ。今なら紅組として出演しただろう。いや、もうそもそも紅白という性別の色分けも時代錯誤なのかもしれない。
昨今の「多様性の時代」に私自身は戸惑う。戸惑っている。どこまでが許せてどこまでが許せないのかが私のなかにあるにはあるのだが、今の社会の認識や規範がどこで、どこまでが許せてどこまでが許されないのかが全くわからない。それが私の認識とはズレているのか、ズレていないのかもわからない。
一歩間違えればそれは批判を浴びることになる。私の認識不足でしたと言わざるを得ない。しかしその認識が何で何が正しく何が正しくないのかがわからない。わからないから手探りの状態なのだと、正直言わざるを得ない。きっと皆が同じではないだろうか。
そんなことを考えながら見ていた。
問題作と言えば問題作である。
