会津―1868年で歴史をとめた町② | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

会津―1868年で歴史をとめた町②

城から市街地に出ても「この石垣のあたりで激戦が繰り広げられた」「ここでは家老の家族たち、特に女性たちも敵に殺されるよりはましだということで自害した」などという話を聞くと、摩文仁の丘やひめゆりの塔にいるかのような気がしてきた。
 しかも憎いはずの官軍の墓地では薩摩藩や長州藩の兵の名が刻まれているのだが、ここが地元の人に荒らされたことはなかったという。死ねば恩讐の区別なしという考えが濃厚であり、米兵の名も沖縄人、日本兵とならんで石碑に刻み慰霊する平和の礎と共通する。

一方で儒教的な感覚も根強。郊外に藩校日新館が復元されているというので案内してもらった。そこで子供たちに叩き込んでいたのが、前夜に私が温泉で見た「あいづっこ宣言」のもとになる「什の掟」である。ここで学んだのが、官軍が会津を包囲して虐殺を始めた際に戦った、今の年でいうと中高生の白虎隊である。このとき市内の飯盛山に立てこもった彼らは、若松城の方から煙が上がっているのをみて落城したと誤認し、20名が切腹し、1名を除く19名が絶命した。彼らに退却するよりも壮絶な死を選ばせたのが「卑怯な振舞いをしてはなりませぬ」という什の掟の一文ではなかったか。この悲劇は後に多くの人々の哀れを誘った。そして飯盛山には彼らを偲び墓参に来る人が後を絶えない。

時は会津戦争から120年経た1980年代、日本中がバブル経済で盛り上がり、どの自治体でも「箱モノ」と呼ばれる大同小異のホールや博物館等の公共施設が建てられた。だが会津若松市は大金をはたいて残された図面を基に日新館を復興させ、そこで儒教教育を復活させたのだ。その資料館にある、官軍の猛攻撃によりぼろぼろになった若松城の模型の哀れな姿は痛ましいほどに会津藩の悲劇を後世に伝えていて、記憶再生装置の役割を果たしているのがよくわかった。まるで韓国の独立記念館にいるような感じがしてきた。

一つ気になることがある。この街では会津戦争を客観的に見ることができないのではないかということだ。たとえば鶴ヶ城炎上という誤認に基づく白虎隊の死は無駄死であり、城下まで確認に行って官軍と戦い、一人でも敵を倒すべきだったのではないか?また、当時の藩主、松平容保を偲ぶお花祭りなどが行われ、今なお慕われているというが、京都守護職を受け入れたことや、戊辰戦争とその後の処分に対する責任が松平家になかったのか?このような考えが会津では難しいのではないか。あたかも韓国で日本統治時代を客観的にみられないかのように。

会津戦争のあと、会津は多くの屍で散乱したが、官軍は見せしめとして埋葬をしばらく許さなかった。さらに生き残った会津藩士たちは、石高が本来の1割以下の酷寒の地、下北半島に移され、人々は飢えと寒さに苦しめられた。ここまで立場が激変した藩は他にない。

会津を去る前にガイドさんが他の旅行者に声をかけた。その方は新潟のある町から来た人だった。するとガイドさんは「そうですか、そこは昔長岡藩でしたね。その節はお世話になりました。」と深々と頭を下げた。長岡藩も朝敵とされ、会津と同盟して戦った仲である。また、東日本大震災のあと、山口県萩市から会津若松市に救援物資が届いたり、山口県選出の安倍総理が同市を訪問したりした際も「先輩方が迷惑をかけた。」と謝罪したという。長州藩の子孫たちはこの街では今も気を使わねばならぬようだ。この街が1868年という年を大切にしながらも乗り越えることを祈りつつ、震災から半年後の会津若松市を発った。