山形県の農村―最上川を下って | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

山形県の農村―最上川を下って

 

 山形県の農村は美しい。特に米沢市を中心とした置賜地方は緑豊かで田畑も実る。明治時代にここを訪れた英国の女流作家、イザベラ・バードは、この地を「東洋のアルカディア」と絶賛した。当時の様子は知る由もないが、小国寡民で山々に囲まれた小天地であることは間違いない。

バードが称えたこの村の基礎を作ったのが、上杉鷹山である。時は18世紀後半、十五万国の米沢藩の家臣たち、上杉家百二十万石というかつての栄光(イリュージョン?)に浸り、破産寸前状態にあった現実から目をそらしていた。そのような家臣を目覚めさせ、十五万石に見合った質素倹約令をしき、紅花や織物といった殖産興業政策を実施し、教育機間として藩校興譲館を起こしたのが上杉鷹山だった。この地がこのように豊かな地に変わったきっかけの一つが彼の存在である。

財政危機に陥っている今の日本からすると、身につまされる思いであるが、今の米沢市内はシャッター通りの閑散とした商店街がならび、多少客がいるのは郊外のチェーン店。あの世の上杉鷹山公ならどうするだろうか?

米沢から最上川を下って北上すると、山形盆地を抜けると、戸沢村である。ここで知る人ぞ知る存在が、「道の駅モモカミの里高麗館」である。「モモ」とは崖、「カミ」とは盆地を表すアイヌ語だ。山間の中山間地に突如現れる韓国風の建築群は、十一億六千万円を投じて九十七年にできたものだ。八十年代に現地の農家に相次いで嫁いできた韓国人花嫁が故国の文化を伝えつつ職場として利用するために建設されたという。

ここで面白いのは村の守り神、チャンスンである。チャンスンの表記が「チャンシン」となっているのがほほえましい。おそらくズーズー弁を過剰矯正しているのだろう。また、その他にもチャンスン風こけしをトーテムポールにしたのも朝鮮の民俗が東北の民俗に習合したようで興味深い。

韓流で二千年代は黒字をだしたが、ブーム衰退とともに赤字に転落。訪れた日は休館だった。ブームに翻弄され、赤字転落したため屋根瓦が落ちていても修理する余裕がない。ただ民族融和とか共生社会というよりも、この「こけしチャンシン」とその表記、そして何より韓国人花嫁の社会参加のためにこんな大きな施設を作った村に敬意を払いたい。

戸沢村から、芭蕉が「五月雨のあつめてはやし」と詠んだ日本三大急流の最上川を西に下ると、県内最大の庄内平野である。出羽富士の異名をとる鳥海山に見守られる酒田市には、米どころ山形県内の米が集積される。日本海からの寒波から米蔵を守るために植えたケヤキ並木が今も残る山居倉庫内からどんどん米袋がコンベアに乗って出てきてはトラックに積まれていく。この今でも現役なのだ。

庄内平野の富は米。それが積み込まれ、出荷されていく。それが銭となってこの町の豪商に蓄財させ、町一番の料亭「相馬楼」では京の舞妓や芸妓が唄い、舞う。紅で染めた妖艶な畳の上で舞う彼女らと、夢二の描いた女たち、京風に内裏と雛を並べた雛壇、そして陰翳のおりなす和室と中庭は、うたかたの夢を見させてくれるに十分だ。そして日本海に沈む夕日を見ながらいで湯に浸かれる湯の浜温泉も町から近い。

 農業県山形を歩くには、この最上川沿いに旅をするに限る。