会津―1868年で歴史をとめた町① | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

会津―1868年で歴史をとめた町①

 残暑厳しいある日、猪苗代湖から峠を越えて会津盆地を見下ろしたとき、1868年、戊辰戦争の一環として戦われた会津戦争において、薩長土肥を中心とした「官軍」もこのあたりから会津の町を見下ろしたであろうことを思いだしつつ、市内に入った。

その日の宿は会津の奥座敷ともいわれる渓流の美しい東山温泉だった。旅館に着くや驚いたのは、入口で戊辰戦争時の悲劇、白虎隊の像が迎えてくれたことだ。さらに露天風呂には白虎隊を育てた藩校、日新館の掟「什の掟」を現代風にアレンジして会津若松市教育委員会が制定した「あいづっこ宣言」が木の板に毛筆で書かれている。「卑怯なふるまいをしません、会津を誇り、年上を敬います、ならぬことはならぬものです・・・」裸でリラックスできる露天風呂で、思わず居住まいを正し、正座して露天風呂に浸かりたくなったほどだ。

 もともと会津藩は将軍に仕える親藩松平藩であり、将軍に忠誠を尽くすことを「国是」とする藩であった。藩政は豊かでなかったにもかかわらず、幕府は会津藩に京都守護職として京都に赴任させた。これは朝廷を長州などの倒幕派と接触させぬために監視する、現在でいうならCIA兼憲兵隊にあたる組織であるが、資金は基本的に会津藩による持ち出しであった。これにより藩は多大な負担を強いられたが、将軍にはあくまで忠実であった。

当初は会津藩に協力し、長州の勢力を京都から追い出したりもした薩摩藩も、その後薩長同盟により会津と対立した。そして1867年、幕府と土佐藩は幕府と有力大名による公議制を、薩長両藩や公家の岩倉具視は幕府抜きの公議制を唱えているときでさえ、会津藩は幕府の専制を主張した。時代は幕府滅亡に向かっていてもあえて旧習を守ろうとしたのだ。

同年10月24日、徳川慶喜は大政奉還したが、薩長は朝廷の正規の軍であることを示す錦の御旗を掲げ、「官軍」として旧幕府軍と戦った。錦の御旗をみた旧幕府軍は、朝廷と矛を交えるのは「朝敵」とみなされると思い、逃亡者が続出した。権威によって雑兵にいたるまでひれ伏したのは、もしかしたらこの時が最初ではなかろうか。さらに将軍徳川慶喜まで大阪湾から軍艦に乗って江戸にもどり、謹慎してしまった結果、江戸は無血開城となった。

しかしその後、戦場が北日本に移ると、京都守護職として天皇のもとで長州藩などの倒幕勢力を制圧してきた会津藩は、天皇をかどわかした朝敵にされ、官軍の攻撃を一手に受けることとなった。ただし孤立無援ではない。現在の東北や新潟県を中心とする佐幕派とともに立ち上がり、内乱状態になったのだ。

会津についた翌朝、私は車で鶴ヶ城に向かった。東北の地方都市にいながら、なぜか私は沖縄と韓国が調和しないままの町に放り込まれたかのような感じがしてきた。

まず鶴ヶ城でガイドさんに戊辰戦争の説明を受けながら、「ここに官軍が攻めてきて大砲を受けた」、「あの向こうの山に佐賀藩のアームストロング砲が据え付けられて城を攻撃された」というような話を聞くと、米軍の攻撃を受けた首里城にでもいるかのような感じがしてきた。さらに滝廉太郎の「荒城の月」をともに歌いましょうといわれたころから、ここは戊辰戦争で時間がとまっていることをはっきりと確信しつつ、ともに歌った。(続)