お上がだめでも下々が築いたものづくりの都、浜松 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

お上がだめでも下々が築いたものづくりの都、浜松

「TV(Technical visit)」、つまり産業観光の町として知られる浜松市は、元々ものづくりの町ではなく、徳川家康が本拠地とした城下町として発達した。城下町の人々には城を眺めながら成長することを誇りに思い、武士道精神や学問を重んじるメンタリティがある。しかし浜松の町は、日本史上最大級の有名人、徳川家康の居城としては物足りないほど、「城下町意識」が希薄である。確かに野面積みの石垣は豪壮さを感じさせるが、それは城マニアにしか通用しないこだわりだ。それよりも市民の誇りは、それを上回る「技術者の町」としての意識なのだ。なぜこの町が城下町から技術者の町になっていったかを見てみよう。

 徳川家康の没後、浜松城は「出世城」と言われた。それは江戸幕府に仕える諸大名のうち、浜松城に転封(つまり「栄転」)されたものは、その後かなり高い確率で「老中」として幕政を担当することになったからだ。そのうちの一人、水野忠邦は19世紀に浜松城主となった後、老中として江戸に栄転し、幕政改革を行ったが失敗に終わった。その知名度にも関わらず、浜松城資料館には彼に関する資料はほとんどない。というのも彼は常に江戸の幕政に目を光らせており、目の前の浜松の藩政は眼中になかったため、市民の評価が低いのだ。

そこで浜松の庶民たちの間に根付いていったのが、藩主に頼らず独立独歩で道を拓く「やらまいか精神」である。彼らが選んだ道が職人として技術力や創造性を高めることだった。江戸時代が終わってもそのメンタリティは残り、近代にそれは大きく開花した。

例えば浜松市に隣接する湖西市もかつて浜松藩領であったが、ここでは職人的な直感で自動織機を発明した豊田佐吉が生まれ育った。そして学究的な理論家の息子、豊田喜一郎がそれを発展させてトヨタ自動車を作り上げた。また1887に浜松で生まれた鈴木道雄も、豊田佐吉の発明による織機の制作から始まり、オートバイ、そして自動車製造に手を広げ、世界有数の軽自動車会社にまで成長させた。これが現在のスズキ自動車である。

1887年に浜松の小学校でオルガンを修理したことをきっかけにオルガンの構造を知り、なんと翌年国産初のオルガンを製造した山葉寅楠は、養子に国産初のピアノを制作させた。これが世界一のシェアを誇るヤマハのピアノである。そして1954年にオートバイ生産をはじめ、オートバイメーカーとしても抜群の知名度を誇るようになる。ちなみにヤマハでピアノ製造法を習得したのちに独立したのが河合小市、つまりカワイピアノの創業者である。

1906年にここで生まれた本田宗一郎は、四歳にしてガソリンの匂いを嗅ぎ、それに憧れてオートバイを作った。これがホンダ技研株式会社である。彼の故郷の村の記念館には自転車にエンジンを搭載した「原動機付自転車」が展示されているが、そのエンジンタンクは近所の湯たんぽ職人に作らせたというエピソードも技術者の町、浜松らしいといえよう。

織機から自動車を作り出したトヨタやスズキ、楽器からオートバイに転身したヤマハなど、これらの会社は畑違いのものにでも確かな技術力で果敢に進出していき成功を収めていった。このように旧浜松藩領の人々は、民の暮らしを顧みない藩主たちに愛想をつかし、独立独歩の道を歩んだ。藩政時代が終わった20世紀に、技術力で世界の大企業を生み出しえた風土は、お上がしっかりしていなかったからだとすると、まさに「塞翁が馬」といえる。