『本日もツアーバス
へのご乗車

誠にありがとうございます

本日、旅をしますのは伊豆半島は
下田でございます
どうぞ最後までお付き合い下さいませ
』

『下田市にやってまいりました
この下田は江戸時代から船の風待ちをする湊として栄えた場所でございます
(伊豆の下田に長居はおよし 縞の財布が空になる)
と、歌われる程、賑やかな湊だったといいます

そしで1854年(江戸末期)日米和親条約や、下田条約が日本とアメリカで結ばれ、本格的に開港された港で、アメリカからの総領事、タウンゼント・ハリスが滞留した町でもあります
』

『現在の下田市は金目鯛をはじめとする水産業、柑橘類の農業、そして温泉場は総称して下田温泉と呼んでおります
下田温泉は、白浜、蓮台寺、河内、観音、相玉の総称でございます
一部の温泉は伊豆金山の一つ旧河津鉱山からのお湯をパイプラインによって引いております
』

『この下田が観光地と知られる様になりましたのは、昭和初期に川端康成の(伊豆の踊子)や十一谷義三郎の(唐人お吉)の小説発表がきっかけで下田は一躍、観光の町にと発展いたしました
機会がありましたら是非、読んで頂きたい本でございます
』

オススメです
『1853年、マッシュ・ペリーが現在の神奈川県の浦賀に黒船でやってきますと開港を求めました
翌年、1854年に日本とアメリカで結ばれた日米和親条約は神奈川条約とも呼ばれ
(通商は拒否するが、港は開く)
という条約で、林修斎とマシュー・ペリーにより締結され、下田と函館を港としてアメリカに提供しました
これにより約200年間、閉ざされた日本が開港となってまいります
また、同じ年に、下田の了仙寺にて下田条約が調印されます
2年後の1856年、日本最初の米国総領事として下田の玉泉寺を総領事館とし、タウンゼント・ハリスが就任します
体調を崩していたハリスは、看護をしてくれる人を要請、下田奉行は妾を要求していると思い、17才の芸者、きちを説き伏せ玉泉寺に向かわせました 』
『駕籠で行くのはお吉ぢゃないか
下田港の春の雨 泣けば椿の花が散る
と、西条八十が昭和4年に唐人お吉の唄でよまれました』
『また、下田節の一節に
行こか柿崎戻ろか下田 ここが思案の間戸ヶ浜とよまれています』
是非読んで頂きたい本です
『きちは3日で訳あって戻され、芸者に戻り暮らしておりましたが、人々からは毛唐に身を売った女だと言われて石まで投げられる始末、
明治になり斎籐と言う名字にし、各地を転々としました
下田に戻り髪結業や小料理屋(安直楼)を営みましたが上手くはいかず、明治23年稲生沢川に、転落水死しました
享年48才ですた
亡骸は誰も引き取らず、宝福寺の住職が寺に埋葬しました』
『下田にある宝福寺には、お吉の記念館、命日の3月27日にはお吉祭りを開きお吉を偲んでおります』
お吉の唄は次回の折に…